音楽の編み物

シューチョのブログ

『シン・ゴジラ』について

PC内のファイルを整理していたら、『シン・ゴジラ』鑑賞直後に書きかけていた拙文が出てきました。気の向くままわーっと書いたものの、けっきょく発表は控えたのでした。当時、巷が絶賛する中、大勢に屈した(頭掻)?屈したというより、あまりに周囲と自分が異なる気がして、何だか心が萎み、引っ込めてしまったのだと今の自分としては釈明しておきます。今見直せばまた評価が違ってくるかも、という留保も一応添えつつ(苦笑)、ほぼほぼ当時のまま投稿します。ネタバレありなのはもとよりで、その点ご容赦ご了承のほどを。
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高い評価では主に、人間ドラマをしっかり描いた所を○としているようだ。が、それはまるで転倒した見方のように思う。

リアリティーの追求に躍起になるあまり、ゴジラが完全にそのダシとなり、「現実的描写」に都合よくあてがわれる「虚構の使徒」になりさがってしまった。

本来、ゴジラそのものの存在を押し出してこそゴジラ映画であろう。初代はもちろん、一般評価が低い(からこそおそらく)昭和ゴジラジュブナイルゴジラも、当然ながらこの点だけは必ずクリアしていた。その後、平成ゴジラで、肝心のそこが弱められ、ゴジラ自身はvsキャラや人間ドラマのダシに回された。ミレニアムゴジラで久しぶりにゴジラ自体にスポットライトが当たる作りになり、溜飲が下がった。「ミレニアム」「×メガギラス」は傑作となった。

 


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それにしても、ゴジラで描くリアルといったら、政府と自衛隊を詳細に描くことしかないのか。冒頭から延々と続く政界風刺には心底がっかりした。それをゴジラだからこそできると思っているのか、あまりにもくど過ぎる。

自衛隊の扱いも、協力を依頼してそれが得られたものだから、それに見合った詳細を描かないといけないということになり、あそこまでになったのだろう。

政府も自衛隊も描かない(少なくとも背景的な存在とする)ことは可能である。描かなければいいだけのことである。ゴジラ映画では「ゴジラこそがリアリティー」である。そこさえ外さなければ、ゴジラと対峙する人間(たち)をどのような存在に設定するかは自由のはずであろう。

ところが「政府と自衛隊を描かなければリアリティーがない」と思い込んでしまう。

「リアリティーの追求」の末路は必ずこうなる。現代のほんものの災害や危機のように躍起になって描いた結果がこれか。

けっきょくクライマックスはゴジラの凍結という、これまた陳腐な始末の付け方。で、その人間ドラマ側の機が熟すのをゴジラが「待つ」ことになる。いや、「放射熱線等放出後いったんゴジラの活動が収まる」というフィクション自体はむしろ優れている。だが、それを、人間ドラマの都合にしか活かすことができていない。つまり、そのために与えられた設定のように見えてしまう。製作時の経緯がたとえその通りであったとしても、作品を視聴する者にそう感じさせてしまっては、本末転倒である。これを以て“フィクションの不活性”という。作品世界の中で、ゴジラのその特徴に気づき、それを掬い上げて活路を見出そうと登場人物たちが動いていく…、そこをダイナミックかつ繊細に描いてこそ、こうした「怪獣映画のフィクション」は活きるのである。

で、ゴジラを待たせている間に、つまり凍結作戦を準備する人間ドラマが詳細に描かれるのを見て、「…てことは、ゴジラはもう、さっきのあのシーンよりも派手には暴れないままで終わるんだろうな」と予測できてしまう。そうか、だから「ゴジラの山場はここね」という感じで、やたらと強く神々しく描いておいたんだな、と読めてしまう。

そのシーン=ゴジラの強く神々しい威力を示すシーンにしても、少しの違和感があり、何だったかを考えてみると、ゴジラに意志や自我が感じられない点であったことに気づく。ゴジラはこのシーンで、放射熱線を初め、火炎の形で地面にうつむいて吐く。その圧倒的な大量の火の吐き方は従来にない迫力があるにはあったが、何だか、単なる生物的な吐瀉のように見え、怒りや破壊の「意志」からそうしたとは見えなかった。その後の、全身からの放射能の閃光も、外界からの反応、しかも幾分植物的な、ウツボカズラの食虫時にすばやく葉?を閉じる動きと同種の反射的反応のように思えた。動物的な「意志の発露」には見えなかった。あのような光線の発し方は、キングギドラには似つかわしいが、ゴジラにはふさわしくない。ゴジラの意志的存在部分が矮小化されてしまった。

予測できて/読めてしまうからつまらないのではない。つまらないという直観が先にある。おもしろいときはおもしろい。予測/読みが当たってもはずれても、「やっぱりそう来たか!」「へぇー、そう来るか!」のいずれになったとしても、おもしろければおもしろいのである。今は、つまらないという予測が当たって、その通り、つまらない…、ということを嘆いている。

平成ゴジラ路線をより徹底させた。せっかくミレニアムゴジラで、ゴジラ予知ネットワークなどの民間を人間側の主役の一つに据えるなど、いったんそれとは異なる方向へのシフトが試みられたのに。そちらを継いで欲しかった。

と思ったら、パンフレットのスタッフ陣のコメントがぴったりその通りで、喜んでいいのか悲しんでいいのか…。

ゴジラの意匠は秀逸。これまでで初代に最も似ているように見え、時代の進んだ分、デザイン自体/造型自体は初代をさえ凌ぐ印象。ただ、フルタイムで赤身が見えるのは唯一のマイナス。普段は“ゴジラ色”の皮膚のみの方がなおよかった。

ゴジラの意匠は本来、無個性である。怪獣の元祖である。いわゆる二足歩行型で、背びれと尻尾がある、あの造型、あの色。ゴジラといえば誰もが等しく思い浮かべるその姿。それは怪獣存在の原型である。そこに「特徴」は、ない。まさに怪獣として「無特徴」であることがゴジラを形作っている。

しかし、そこにもミソがつく。あの、「第一形態」は何だ。背びれだけが見える状態がしばらく続き、「おや、もうゴジラが出るのか。早いなあ」──と思っていたら、目玉のでかい恐竜顔が現れ、妙な上半身の動きにも興ざめし、「何だ、ゴジラじゃなかったのか。後でこいつを追ってゴジラが現れる、ということかな」──と思っていると、いきなりムクムクと変態して「えっ、こいつがゴジラゴジラになる??」… 繰り返しになるが、「予測が裏切られること」自体がわるいのではない。予測外の答のその内容自体にガッカリしているのである。せっかくの素晴らしい最終意匠が台無しの展開。あんな妙ちきりんな生物がゴジラ(になる)だなんて…、ゴジラの威厳はどこへ行ってしまったんだ…と嘆きたくなった。メタモルフォーゼのアイデアはいいが、もう少しリファインできなかったのか…。それとも、私が嘆くようなそういった特徴こそを狙ったのか。おそらくそういうことなんだろうなあ…。

アニメ畑の監督だからという先入観もあるのかもしれないが、あのメタモルフォーゼのCGシーンはアニメそのものではないか。アニメのセルを重ねるイメージでできあがった感じ。第一形態の、あの河の激流のように急速に動く流体的な皮膚の表面は、ゴジラの変異前としてはあまりにも不自然に過ぎる。「もはや人知・想像が到底及ばないような存在である」と言い訳すれば何でも通るというのでは本末転倒である。怪獣/ゴジラというものは、単に「ありえないべらぼうな存在」ではなく「ありえないがありそうな(面を持つ)存在」であってこそのものであろう。

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