音楽の編み物

シューチョのブログ

浅田美代子「赤い風船」幻想

浅田美代子「赤い風船」が出てきたとき、

 

浅田美代子は歌が下手だ

 

というイメージがどこからも流布された。私の家族も「もうちょっと何とかならないか…」と苦笑しつつTVを見ていて、小学生の私自身もそのとき「よくこれで歌を出したなぁ」という印象を持ったのを覚えている。

 

私がいわゆる歌謡曲に興味関心を強く示していた時期は10代前半の数年だけだったので、以後、このことについて気にとめることはなかった。

 

この「赤い風船幻想(問題)」が私の中で再燃するのは、ずっと後の、個人アイドル全盛期を過ぎ、若い芸能人がアイドルでなく歌手またはアーティストを標榜して次々売り出されるようになった時代が到来してからであった。

 

赤い風船幻想と題して何を言いたいか大方予測されたことと思う。

 

──昔の女性アイドルの歌は下手だったが、やはり可愛らしく、その下手さ自体にも味わいがあり、昨今の歌手たちよりも魅力的な部分がやはりある、ということを再認識した。──

 

というところかもしれない。確かに、これが「赤い風船幻想」である。実は私も、“再燃”当初はこのように考えた。だが、今は考えが進み、実はこの認識こそがまさに幻想だと言いたい。つまり

 

下手ではないものを下手と思い込み、そのことを支持や贔屓(または不支持やマイナス評)の理由にする、という転倒がある

 

ということである。

 

幸い、現在は、その気になれば手軽に当時の映像音声資料に当たれる(を拾える)。この短い夏休みの中の1日、ふと思い立って、改めて浅田自身の当時の映像などに接してみた。その中で、『時間ですよ』で共演した天地真理、カバーをレコーディングした石川さゆり森昌子のものも聴いた。そうしてわかったことは、同曲の歌唱をあえて比較採点すれば、浅田は少なくともこの4人中では天地に次ぐ2番目であるということ。石川も森も、跳躍先の本来の高音にしっかり飛ばない場面があり、あれどうした?と肩透かしを受けた(もちろん、そういう歌唱法は、一般には、意図してなされることもありかつそれこそが巧さとなることもあるが…)。対して浅田は、少なくとも私が接したいくつかの映像(ドラマ内と歌謡番組の両方を含む)において音楽の三要素すべてにおいてこの持ち歌をほぼ完璧にこなしている。つまり今となっては

 

浅田美代子は下手だという固定観念そのものが、その作用の否定性肯定性によらず、作られた幻想であった

 

という結論に私は近づいている。もちろんそうなった理由はあろう。それは

 

主にファルセットの不安定感

 

によるのだろう。浅田はこの曲の大部分を(おそらく)ファルセットで歌っている。専門的訓練を受けずに出す裏声が安定して伸びのあるものになろうはずはなく、「今にも音を外しそう」な絶妙さでずっと進むのも事実である。そこを捉えて多くの人が「つい」下手だ、音を外している、と聞いてしまったと思われる。

 

まさにそれこそが下手ということ(の少なくとも一種)ではないか

 

と返されるかもしれない。確かに。それでも、よく聴くと、

 

浅田はほとんど、音程自体は、今にも外しそうではあるが、外していないのである。「外したかのように聞こえる」だけである。

 

ほとんどということは少しは外れているのではないか

 

とも訝しがられよう。それはそうで、私にもごく1、2箇所は確認できた。だが、現代の“ヴォーカリスト”たちを見よ。浅田とは逆に、音が外れまくっているように私には聴こえる。それでいてアーティスト/ヴォーカリストを名乗り、人によってはカリスマ化している。そちらの欺瞞性の方が、浅田のようなアイドルを「下手でもいい」と愛でることに比べても、よほど問題ではないのか。

 

浅田美代子は、まさか、巧くはない。その歌に対する“非専門性”について、改めて力説するまでもない。しかし、“非専門の申し子”ではあっても、“下手の代名詞”ではない。けっして。そのような流布があるとすればそれは是正されるべきだ。浅田よりももっとずっと下手な人間が堂々と歌手を気取る時代に来ているという自覚の下に、特に強調するものである。

 

もとより浅田を贔屓する人たちの多くは、「下手だが魅力的」「下手なところがいい」という目の向け方をしておられるのだろう。彼女の歌唱にプラス価値を見出している点では賛同する。彼女の歌唱に独自の魅力があることを端から私も否定していない。私はそれに加え、下手でさえない、下手でさえなかったことに気づいた、と言っている。彼女の歌を(マイナス的に)下手の代名詞と認識していた人にも、彼女の(歌の)ファンの人にも、このことは報告しておきたいと思った次第である。


73'「赤い風船」 浅田美代子 堺正章 天地真理