音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (58)

 昨今、YouTubeCS放送のおかげもあり、歌謡曲やいわゆる「J-Pop」の、優れた同曲異演(異唱)(いわゆる「カヴァー」)の恩恵に容易くあずかることができますね。

 中でも魅かれるのは、林あさ美さんのものです。

 林あさ美さんは、その美貌から「演歌界のアイドル」と呼ばれもしたようです。が、林あさ美の本質は何といってもその比類なき歌唱力・旋律造型力です。彼女の歌ったカヴァー曲で、オリジナルより劣るものを僕はまだ知りません。いえ、たいていは、オリジナルに迫る/並ぶどころか、超えているのです。どれでもよいので、ぜひ視聴してみて下さい。彼女を聴くと、オリジナルも聴きたくなる。そして、オリジナルを聴き終わると何か満ち足りず、再び彼女を聴きたくなり、聴いて満足する。──どの曲も、この繰り返しになります。彼女の過去の出演番組の動画をアップされている方々も、おそらく僕と同じ思いでありましょう。

 「歌謡曲がお好き」という、カヴァー曲を集めたアルバムも1枚だけあります。

「雪國」…全10曲中の白眉でしょう。リズム(ビート)を抜いたギター1本の「間の手」のみの伴奏によるレチタティーヴォ的な1番、ボサノヴァ風の名編曲に乗せた2番以降、ともにみごとにこの曲の本質をえぐり出していて、そうか!「雪國」という曲はこういう曲だったのか、と唸らせるのです。オリジナルはよくできた演歌、対する林あさ美の「雪國」は、一つの音楽となっています。

「愛の水中花」…歌い出しの4つの「愛」と前に付く修飾語の表現を始め、「私は〜水中花」に至るまで、微に入り細にわたり、歌詞と旋律が彼女の声に乗って理想的に織りなされていく様は圧巻です。

「二人でお酒を」…抑制の効いた歌い出し、角の取れたリズム、「これは別れの歌だった」と気づきドキッとする。この歌の詞と曲の本質がストレートに造型され、聴いていて胸のすく思いがします。

 YouTube 等に上がっているものもどれもこれもいいのですが、数曲に絞って書きます。

「わたしの城下町」…演歌調歌唱として一つの極みに達していて、林あさ美入門に最適ではないかと。小柳ルミ子で聴くとき、まずあの魅惑的な美声を聴くことになりますが、林あさ美で聴くと個々の歌手の個性を超えた音楽としてこの曲を味わうことができます。「わたしの城下町」という歌だけが聞こえてくる。

秋桜」…さだまさし不朽の名曲。(僕の知る動画では)フルコーラスでないのがまことに残念。演歌歌手としての力と技を十分に活かした歌唱であるため、暑苦しいとかクサイとか批判されそうですね。各フレーズの終わりでのくずし(引き延ばし)、「独り言」「笑った」「もう少し」「下さい」などの沁み入るような発声、等々。しかし、旋律造型の観点からも歌詞の表現からも、このくらい彫り深く歌う方がまずはこの曲に対して本質的であることに「今さらながら」気付かされ「唇を噛む」わけです(笑)。山口百恵の歌唱には山口百恵の魅力が存分に出ていますし、僕もそれにはまことに魅了されますが、それは、「秋桜」という曲の普遍性が直に伝わることとは区別されるべきことです。また、「彫りを深く」ということは、巷に言われる「気持ちを込める」「歌詞の内容を大事にする」とかいうこととは、ちょっと違うと言っておきます。

かもめが翔んだ日」…僕の知る動画では、冒頭の「(かも)めが翔ん(だ)」のリテヌートが前後のちょうど2倍に遅くなっています。オリジナルを初めて聴いたとき、2倍(に遅い)よりは少し速く、かえって加速感があることにビビッときたものでした。が、林あさ美で聴くと、そうか、やはりこちらが一つの普遍で、渡辺真知子自身の方がそれを「はずし」て個性を出していたのか、と思わされる。もちろん、「伴奏オケと合わせるのにこうやる方が都合がよかったから」というタネ明かしは誰でも思いつきます。しかし、冒頭から直前まで、「ハーバー」の張り、「朝日に」の抑制、「変わる」の引き延ばし、「そのとき一羽の」の落ち着き…と、歌い回しがフレージングのツボをこれまた悉く押さえて刺戟してくれた上でここへ来てこうされると、この一瞬がなぜか心地よく、その後も引き込まれる、そういうつながりを旋律造型で示している。他の人がこうやればダサいだけだったかもしれないところ、林あさ美にかかると、全体として頷かせる某かを備えることになるのです。

「終着駅」…これまであちこちで視聴できた数十曲のうち、唯一この曲だけは僕には違和感が残りました。冒頭から、彼女は2小節毎の第1拍に強勢を置いて歌っていきますが、それは反対で、入りを弱く始め、下降とともに音符8つで cresc.、残り5つで dim. を繰り返す…というのがこの曲の普遍造型ではないかと僕は思います。マイナス評のものをあえて挙げたのは、例えば平原綾香に対してなら「造型の不足」や「無造型」という不満を「ほぼ常に」抱く(苦笑)わけですが、林あさ美への不満はこのように、「ごく稀に」「意見の違い」として表れる、ということを書きたかったからです。

「タッチ」…この曲の優れた点の一つは、歌詞の文節と旋律のフレージングがぴったり合っているところです。 林あさ美はその詞と曲を何のクセもなくありのままに造型していき、破綻がありません。つながるべきところがつながり、切れるべきところは切れる。加えて、演歌仕込みだからなのでしょう、文節の一つ一つ自体の中での語句の発音発声や強弱の在り方が、逐一普遍性を帯びています。ミクロにもマクロにもパーフェクトです。歌い出しから少し緊張感を持って抑えめの発声をキープし、「したから」までではこの「ら」が最も強く声を張ることでフレージングの区切りが示される、その中の「あなた」での呼びかけるような溜め息のような色香の漂う一瞬の「あ」の発声、「回り道を」の「を」を長めに伸ばす、そしてその直後の「あと何回」をその「を」よりほんの少し弱く入る…。書いていくときりがないほどですが、旋律造型とはこういうことの積み重ねであり、またその総体です。もちろん、これは考えてできることではないでしょう。後追いで何度も聴いて確かめられるからこんなふうに書いていますが、歌い手がこれを事前にこうしようと考え意識してこうする、という類いのものではなく、曲が優れていれば、旋律に乗せて歌詞を歌えば自ずとそうなる、というような在り方で表れるのですし、そういう歌手が優れた歌手です。そして、必聴箇所は「あなたから(タッチ)手をのばして」の部分です…というだけで何をどうしているかのネタバレになりそうですが、まあいいでしょう。事前にわかっていようといまいと、ライブで独唱でそう来たか!そう来なくちゃ!という痛快さは変わりません。僕は何度も聴きましたが聴く度に嬉しくなります。

 以上からもわかるように、オリジナル(の歌手)の方がかえって変化球を(あえてか)用いていて、そのことで個性が表出され、それゆえに「持ち歌」としての特徴が刷り込まれるということが多いようです。対する林あさ美はつねに直球であり、それはカヴァーする者としての謙虚な姿勢の表れでもあるのでしょうが、そのことによって曲の普遍性・真実性がオリジナルにも増して伝わる力を持つに至っている。まことに非凡な、非の打ち所のない直球といえます。

林あさ美さん、現在は、オフィシャルサイトでの情報の更新がなく、活動を休止しているのかどうなのか、不明です。ぜひ今後も歌ってほしいと強く願います。)