阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』
阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』
(2019年、ちくま学芸文庫)──同名書(1987年、リブロポート)の文庫化──
『法然の衝撃』『親鸞・普遍への道』『日本人はなぜ無宗教なのか』等、著者の宗教論・仏教論にはいつもぐっと引き込まれ、熱い読書体験となったものです。本書も出てすぐ入手、積ん読中でしたが、ちくま学芸文庫版『民藝四十年』が出たタイミングでこちらをまず読んでおこうと思い立ちました。今回も以前と同様にその太い筆力に誘われるまま、一気に読了。
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では、その問いとはなにか。それは、一言でいえば、無名の職人によって無造作に作られる工芸品が、どうしてどれも美しくなってしまうのか、という問いである。
──(92頁)──
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いずれにせよ、専修念仏においては、凡夫は 凡/ 夫/ の/ ま/ ま/ で、その あ/ り/ の/ ま/ ま/ の/ 姿/ で阿弥陀仏によって救われてゆく、と教える。柳宗悦の心をとらえたのはこの 凡/ 夫/ の/ ま/ ま/ で、あるいはその あ/ り/ の/ ま/ ま/ の/ 姿/ で救われていくという点であった。それは、特別な知識や才能をもつわけではない職人の作品が、なぜか例外なく美しくなるという民芸の事実をよく説明してくれるのではないか。凡夫を職人という言葉におきかえ、救われるという言葉を美しくなる、と置きかえてみれば、一目瞭然であろう。職人のつくるものは そ/ の/ ま/ ま/ で皆美しくなる!
──(98頁、著者傍点を“/ ”で代用)──
柳宗悦が「用の美」の語に込めた力点は、当然ながら「美」の方に置かれています。無名の工人の作った「用のもの」にことごとく美が宿っている。直観によってその「美」を受け取ったからこそ、その源としての「用」を柳は尊ぶ。「用」ゆえに尊ぶのではなく、そこに「美」を見とめるゆえに尊ぶのです。このことは、柳をある程度読んでいけば、私のような“寡読”な者にさえ確信できます。「美しい」が先ですね。柳はその直観は疑わない。疑いようのないその“現れ”こそが直観(されたもの)だからです。嗜好とは違い、まして「何を美しいと思うかは人それぞれ」などという言い方・捉え方からは遥かに隔たっている…。無名の手工藝品が美しい。それらが「どれも美しくなるのはなぜか」と柳は問い、工人の他力門への帰依によるという答に行き着いた、ということでしょう。