2/11(祝)吹奏楽の演奏会振ります/吹きます
ミニチュアスコアと私 選 -1-
(0) プロローグ
(1) ホルスト:組曲「惑星」作品32
(4) チャイコフスキー:
交響曲第5番ホ短調作品64
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
『紀要 特撮批評』について
特撮批評家・神谷和宏さんのwebページ「特撮ブティック」内において『紀要 特撮批評 第1号』が公開されました。拙稿「映像のカデンツァ ─《セブンのダン性》とシューマン」も掲載されています。
原稿発表〜投稿者相互に通読〜ディスカッションを経て、7月20日公開。
拙稿の内容については、拙稿自体を、それについての私の考え/感想については拙稿へのディスカッションを、直接お読み頂ければ嬉しいです。もちろん、拙稿以外の俯瞰的な3論稿もぜひ。その広く深い射程は同人誌としてのポテンシャル十分、一見クールな活字の押し寄せの中にも熱のある「愉しみ」が詰まっています。ビジュアルも美しい。デザインに特撮作品への造詣の深さも垣間見え、特撮通をも唸らせるはず…でありながら、知らずに見る人にとっても「いい挿絵」として十分目を惹きます。編著者の存在と力量の賜物。
ディスカッションについては、私が直接参加できたのは拙稿および神谷論稿の2つに対してのみ…他のお二人の論稿やディスカッションのみの方のご発言へは、興味深く拝読し示唆を受けるも、考えの整理にやや慎重になり過ぎて直には発言・反応できないまま失礼してしまい…ひとえに我が小心のためながら、残念。次の機会があればぜひ、より活発に行こうと思います。
尾高/大フィルの松村禎三「管弦楽のための前奏曲」
2月14日、大阪フィルハーモニー交響楽団第585回定期演奏会。
私の目当てはもちろん松村禎三「管弦楽のための前奏曲」。松村作品の実演に接するのは、NHKsoの交響曲第1・2番,ゲルギエフ/キーロフ歌劇場oの「前奏曲」、カレッジオペラハウスoのオペラ「沈黙」(2回)を経て、やっと5回目になります。
プログラム曲目の演奏に先立ち、故・秋山和慶氏への献奏が行われ、尾高忠明十八番の「ニムロッド」を思いがけず生で聴くことができました。
先に、今回のカップリングであるブルックナー第4について。普段から松村を「東洋のブルックナー」と形容する私(→注)にとっては、「前奏曲」と並べる曲として、ゲルギエフの時のマーラー第9よりもふさわしいと思いました。…が、肝心の演奏は、ウーン、やや淡白に過ぎるように私には感じられ物足りず…。また、座席は2階最前列下手寄りでしたが、(フェスティバルホールは)残響が増えた分、その重なりがマイナスに出たのか、tutti 強奏がこもった感じに当たってきて、耳についてしまい…。
ところが、前半=メイン(笑)の松村では、上記の「響きのマイナス感」などは不思議とまったく感じられず、「アジア的な」「生命の根源から発するエネルギー」という作者自身の言葉通りの迫力が生まれていました。クライマックスの最強奏は圧巻。「大フィルも出来るんや!」と嬉しくなりました(失敬…むろんのこと100%リスペクトの本心を冗句にして申しております)。「交響曲(第1番)」や「ピアノ協奏曲」等の “動的” な曲想に比べれば幾分 “静的” な「前奏曲」の、“時空が止まったまま進む” ようなその最密充填の音楽音響に、ただただ心身を預けて浸りきることができました。
「不思議と」と書いたものの、上記「マイナス感」について思い当たるのは、やはりまず作品内容の充実度の差です。第5、第8、第9辺りならば “釣り合った” のでは…。とまぁこれは松村贔屓の私の言い分でして、冷静な観点からは、両曲の編成・オーケストレーションの違いによるもので、ともかく、ブルックナーには座席位置がおそらく不利に働いたのだろう、とも考えられます。
注…宇野功芳がブルックナーについていう「宇宙の鳴動」「森羅万象の響き」を私は松村作品にも感じるからです。宇野先生の生前にこの自説を直に聞いてもらう機会に恵まれ、得意気に語ってみたものの「(ブルックナーと松村では音楽が)ぜんぜん違うんじゃないか(笑)」と一蹴され…たのも今となっては愉しい思い出です。



『侍タイムスリッパー』 ──《多重活性フィクション》の粋
『侍タイムスリッパー』
《多重活性フィクション》の粋を成す、驚きの傑作でした。

【ネタバレあり】
以下、同映画に関して(なるべく核心部分には触れずに書いたつもりですが)ネタバレを多く含む投稿でありますこと、ご了承下さい。
──前半のあらすじ──
江戸末期、会津藩士・高坂新左衛門は、若い長州藩士との鍔迫り合いの最中に落雷に遭い、現代の京都の映画撮影所にタイムスリップしてしまう。街中のポスターでここが江戸幕府滅亡140年後の世界だと知り呆然とするも、寺の住職や撮影所スタッフに助けられ、「時代劇の“斬られ役”」という生きる術を得て身を立てていく…。
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空腹の高坂に住職の奥さんがおにぎりを食べさせるシーンで「このように美味い握り飯は今まで食べたことがありませぬ。ふるさと会津の雪のように真白き米…食すのがもったいのうござる」とか涙を流して言っておきながら、しかしすぐに完食。「やっぱり食べるんかい!」とつっこむ紅萬子。
そのお茶の間のTVに、先日まさにその撮影中に自分が遭遇した時代劇の一場面が映り、思わず「これ!」と指を差し「絵が動いておる!」とびっくり仰天する高坂。引き続き食い入るように画面を見つめ、いかにも“時代劇あるある”なベタな人情味が滲み出るそのドラマの筋にも「人の心の機微が実にしっかり描かれているではありませんか!…」と大きく心を揺さぶられハラハラと涙を流します。
序盤から感動とユーモアの同時炸裂。
「劇中劇で時代劇映画(の世界)を見せる」という手法は、ちょうど再放送中の『カムカムエヴリバディ』の第3部にもよく似ています。そこでは「大部屋俳優・伴虚無蔵が普段から侍言葉を話す」という活性フィクションが特に冴えていました。そして、「まるでほんものの侍みたいな俳優」虚無蔵と「斬られ役俳優だが実はほんものの侍」高坂との対比を考えると、『侍タイムスリッパー』においては、「ほんものの侍」がそのことを「秘密」にした上でしかも「侍を演じる」という、より多層化したフィクションになっていることがわかります。さらに、ほんものらしさというストレートなリアリティーだけでなく、殺陣の師匠との練習で斬られ役なのについつい斬ってしまったり、斬られた瞬間に、(芝居といえばそれしか知らないゆえだろう)歌舞伎のような見栄をきってしまったり、といった “ほんとう過ぎる” ことの可笑しみまでも描くところまで為されます。
…しばらく物語が進み、「斬られ役」としての小エピソードもあれこれ重ねつつ一段落し…時計は未確認ながらここまででまだ半分ほど?……ムム、この後どうなる/どうする?尺が持つのか??とちょうど訝しく思いそうになったタイミングを見計らうかのように、物語は新たな局面を迎えます。意外でありながら、示されてみれば本作の筋としてはそれしかないと思わせる必然性をも帯びた展開。よくできています。これについての詳述は控えますが、観客の誰もがここへ来て「おーぉ!なるほど…」と膝を打ち納得したのではないでしょうか。
後半について。途中、ある映画の撮影期間中にその全スタッフ・俳優が参加する“中打ち上げ”のパーティーのシーンが差し込まれます。そこで、「シナリオが少し変更になった」と発表され、高坂を含む出演者全員に新しいシナリオが配られていき、高坂は「今すぐ読みます」と真面目に答え黙読し始めます。その変更内容は、会津藩の最期に対して新政府軍によって為された仕打ちについての解説が加わった、というものです。それが、その映画の想像的別映像を挟んだりするのでなく、“中打ち上げ”会場の場面はそのままに、高坂自身の心の声による朗読のみで表現され、そのあまりの酷さに彼は途中で嗚咽し読むのを中断してしまいます。ここの山口馬木也の声の演技に、私はとても打たれました。自分の知りえなかった、仲間の悲劇的な最期の様子を思いがけない形で知らされ、打ち上げ後も酒浸りになり自暴自棄に陥る高坂…。この後、ある特別な仕方でその映画の撮影が行われていく布石ともなる、中盤のクライマックスでした。私には、『獅子の時代』の主人公の一人・会津藩の平沼銑次が、自分の家族が集団自決して倒れた直後にそこにやって来るシーンも思い出されました。
念のため。本作はタイトル自体およびタイトルロゴの通り、コメディとユーモアが主といっていい映画です。たまたまシリアスな上述のシーンについて長く書きましたが、他に笑いに包まれる温かく面白い場面も多くあります。
終盤については1点だけ。クライマックスでの「いまはそのときではない」という(意味の)台詞。この何でもない言葉が、フィクション世界の中でこれほどのリアリティーと感動(とユーモア)を伴って深く響き渡った例を他に知りません。
エンドロールにもトピックが。ある配役についての俳優の名前が、まさにその人が作品内の劇中劇である映画のスタッフとして演じたその同種のスタッフの所にもロールしてくることに気づきました。フィクションとリアルの重複。それは、無類の “フィクションのリアリティー” をいくつも携えた《多重活性フィクション》の粋である本作にいかにもふさわしいことのように私には思え、「おぉ!…」と小さく声が漏れたのでした。
本作を「《多重活性フィクション》の粋」と称したその点に関して、まだまだ次々書き加えたいこともあります。が、本稿はひとまずこんなところで。
#侍タイムスリッパー
「特撮ブティック」について(1)
特撮文化の研究者・神谷和宏さんがご自身のウェブサイトを大幅に更新、「特撮ブティック」として展開されています。気になりつつもなかなかじっくり向き合う時間をとれず…、先日からやっと拝見し始めました。
その冒頭から引用しますと──
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「大人の鑑賞に堪える」そんな批評を超えて。
===見出し===
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「特撮とは何であったのか」そして今、特撮とはどうであるのか」ということについて通史的な視点で論じる。
===本文より===
続いて「特定のエピソードをもって、「大人の鑑賞に堪える」」というような「そんな批評を軽々と、そして遥かに超えていく」と明言されています。カッコいい!
特撮の(人文社会系の)学術的研究と聞けば、一つにはなんとなく「大人の鑑賞に堪える」系の論の延長のようなものを漠然と想像しがちではありませんか。違いますヨ。そのようなイメージは最初から払拭してもらおう!という意気込み。
「個性的な言論が並ぶさまをイメージし」た「ブティック」という命名やサイト全体のデザインにも、美的センスを感じます。『紀要ウルトラマン批評』の始動時「ヴィジュアルも大事に」と言われていたことを思い出します。
メインコンテンツは、博士論文の要約としても読める「Boutique 特撮研究」。そこで最初に挙げられている章題が「特撮の定義」。学術的にはまず定義をおさえる…、でも特撮の定義は「アニメやゲームよりも難しい」。ですよね!そしておそらく(定義が難しいこととも関連?して)その世界も広く深く、把握が難しい。『ユリイカ』とかの人文界?でアニメーションに比べ特撮は驚くほど論じられない、仮面ライダー論はまだしも稀に見かけるがウルトラマンはさらに論じられない。その理由は、「論じる意義が薄いから」として退けたい裏に、実は「普通の批評者には手に負えないから」ではないか…と僕は密かに勘ぐってもきました。
その上に、少ない先行研究も玉石混交…。そういう状況を、神谷さんが開いた。大きな通道です。多くの学者は特撮「にも」触れるという程度。学者の特撮論は、知る限り「(特撮を)出汁にして使う」程度のものが多い。そういう仕方とは違い、神谷さんは、まずもって「特撮研究の著作家」であり、 “初めから” 特撮自体について書かれてきました。そしてそれを自らアカデミックなものとして通用させるべく研鑽を積まれた。その大きな節目が今回の博士論文です。今後の特撮研究のリファレンスとなる労作・力作であろうことが容易に予測できます。「Boutique 特撮研究」についてもいろいろ反応したくなりつつ、本格的な賛辞や論評(あるいはあれば?異論)は、出版される予定の論文本体を拝読してからにしたいという気持ちもあり…、今は、ファンとして何とも待ち遠しくもどかしい、そしてそれが少し嬉しくもある、そんな時期だといえます。
ご来場・応援ありがとうございました!
ご来場のみなさまにも概ね好評を頂け、ときに一体となって?😀楽しんで頂けました。私にとっては前回の「黄金の調和」初演ほどの“大きな”目当ては無かった分、少し余裕を持って臨めたのもよかったのか、本番ではどの曲の演奏も好感触で進めることができました。
終演後、朋友のNさんから「フレーズの“粘性”」(の変化、楽しみ)を改めて感じた、と😌。まさに普段の自分の指揮表現の核としたい所を的確な語彙により指摘してもらってとても嬉しく、報われた思いです🥹。
舞台上および舞台袖の写真は、お馴染みAさん撮影のものから。カメラマンはもうお一人、副団長の大学時代の友人Fさんにもお願いできたので、お二人の分を合わせての良質で豊富なアルバムが残りました。ありがとうございました。






