音楽の編み物

シューチョのブログ

母と食べたそば

関東風のそばが好きです。
 
写真は、関東風を名乗る蕎麦屋の「たぬきそば」。名前は“ちゃんと”関西風(笑)。向かいの若菜そば系列の競合店の前には長い列…。こちらはさほどでもなく、まもなく入れました。少数派でよかった?
 
…正直に言えば「関東風(のそば)“も”」でよく、例えば地元蕎麦店「昭月」の、薄さが旨さの関西だし和牛肉そば“も”最高なことを知っています。
 
 それでも、生まれも育ちも箕面を出たことがないにもかかわらず、うどんはともかく、そばは、濃い色のつゆに(けっして青ねぎではなく)白ねぎの添えられたこの関東風のそばが美味いと感じ…自分にはこちらがデフォルトです。
 
それはきっと、幼少時に食べた松本駅の駅そばの味を求めているからなのでしょう。
 
信州大町生まれの母の帰省について行くと、特急しなのから大糸線の水色の鈍行列車に乗り継ぐまでの待ち時間に、必ず食べたのでした。僕にはどうやらこれがそばの「元味」になっている…と最近気づいたのです。松本駅で母が注文していたのはいつも具材の乗らない「きそば」…これもあまり言わないんでしょうか。僕の方は、「かけそばって何そば?」(笑)とわりと長い間思ってきたものです。
 
母はそばに限らず麺類が好きで、そういえば、最後に一緒に食べることのできた外食は醤油ラーメンでした。

物理の本

ときおり、物理の本を無性に読みたくなります。
  
理工系の学部生向け教科書程度のものを選んで…といっても、通読できたものもあれば、拾い読みしただけのもの、初めの方で止まっているもの、などいろいろですし、読んでは忘れまた読んでは忘れ…という、一つの推理小説を何度も楽しめるような読み方?だったりしますが(頭掻)。

 

それでも、物理の本を無性に読みたくなるときがあるのです。

 

それはきっと、物理学者だった亡き父に教わりたい気持ちがずっとあるからでしょう。物理の本を読んでいると、そこに登場する、物理学やそれに必要な数学についての用語や考え方から計算や記号の形に至るまでが、昔、僕が一つ聞くと十返す感じに、十分にはわかるわけもないのにいろいろ父が話し書いてくれた、それらのものとして想起され現れてくるのです。「あぁ、これ、言ってたなぁ、書いてたなぁ…」という感じに思い出す…いえ、そんな気がするだけで、逐一覚えているわけではきっとなく、でも記憶がもう明確でないからこそ却って、読んでいる今、あたかも父が傍にいて話し書いてくれている、再びその声が聞こえその筆跡が見えるように感じる、とでもいったらいいのでしょうか。それで、「その話、今聞くとよくわかる!」というふうに感じながら理解していけて、嬉しくもなるのです。

ウルトラセブン「狙われた街」と現代

ウルトラセブン』第8話「狙われた街」について書いてみました。私としては珍しく、作品世界外へと開いた社会的な考察も──自分でも抑制し過ぎかと思うほど「遠慮がち」にではありますが──ほんの少し入れました。

 

 

「狙われた街」といえば、メトロン星人とダンのちゃぶ台対面やラストのナレーションが有名ですね。しかし──前者場面を彷彿とさせる?ような写真を載せながら言うのも何ですが(頭掻)──本話の真骨頂はそこではなかろうと考えます。

 

本話「狙われた街」は、《宇宙人同士》《モロボシダンのモノローグ》《ダンとのダイアローグ》といった、『ウルトラセブン』に固有の活性フィクションがさりげなくしかししっかりと織り込まれた佳作です。このうち3つ目の《ダンとのダイアローグ》が、本話においては最も重要です。

 

北川町の住民が次々と事件を起こします。乗客に襲いかかるタクシー運転手、自分で旅客機を墜落させてしまうパイロット(=アンヌの叔父)、ライフルを乱射する青年…。

 

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《モロボシダンのモノローグ》
「またしても北川町の住民だ。これは単なる偶然とは思えない。何かある。きっと何かある」
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一連の事件を影で仕組んだメトロン星人は、ダンに、同じ《宇宙人同士》で傷つけ合うのは愚かだから北川町には近づくなと忠告します。当然ダンはそれを聞き入れないまま行動を続け、業を煮やした?メトロン星人はダンをさびれたアパート(実は秘密基地)へと誘導します。

 

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《ダンとのダイアローグ》
メトロン「ようこそ、ウルトラセブン。われわれは君の来るのを待っていたのだ」
ダン「なに!?」
メトロン「歓迎するぞ。何ならアンヌ隊員も呼んだらどうだね」
ダン「君たちの計画はすべて暴露された。おとなしく降伏しろ!」
メトロン「ハッハッハ…、われわれの実験は十分成功したのさ」
ダン「実験?」
メトロン「赤い結晶体が、人類の頭脳を狂わせるのに十分効力のあることがわかったのだ。──教えてやろう。われわれは人類が互いにルールを守り、信頼し合って生きていることに目をつけたのだ。地球を壊滅させるのに暴力をふるう必要はない。人間同士の信頼感を無くすればいい。人間たちは互いに敵視し、傷つけ合い、やがて自滅していく……どうだ、いい考えだろう」
ダン「そうはさせん!地球にはウルトラ警備隊がいるんだ」
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この対話の直後、メトロン星人は部屋の奥の、ビルトインされていた宇宙船に乗り移ります。
「ウルトラ警備隊?恐いのはウルトラセブン、君だけだ。だから君には宇宙へ帰ってもらう。邪魔だからな。ハハハハハ……」
メトロン星人を追って(思わずつられて?)宇宙船に乗り込むダン。メトロン星人がダンを基地へ誘導したのは、基地から発射するロケットごとダン=セブンを宇宙へ追放するためだったのでした。
メトロン星人の行動は一貫しています。ダン=セブンと戦う意思はないということですね。アイスラッガーエメリウム光線による素早い畳み掛けであっけなく撃退されるのは、第1クールに共通の『ウルトラセブン』らしさであり、メトロン星人の戦闘に関しての弱さ/執着の無さの象徴でもあります。
メトロン星人の地球侵略計画は、こうして終わったのです。人間同士の信頼感を利用するとは、恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい。これは、遠い過去に作られたフィクション、すなわち作り話に過ぎませんから──
──と、ただそう言えればよかったのですが…。当時から見て未来である今の時代は、次々と撒かれる不安の種に人々が苦しめられる世界になっているのではないでしょうか。

 

本話「狙われた街」において重視すべき主要な部分は、ここまでに書いてきた部分(の、対話場面の演出=映像ではなく、対話の中身=脚本の方)であると考えます。それは、繰り返しになりますが、それらの場面が《宇宙人同士》《モロボシダンのモノローグ》《ダンとのダイアローグ》という『ウルトラセブン』に固有の活性フィクションの表出場面だからです。中でも本話の《ダンとのダイアローグ》に表れた問題提起、すなわちメトロン星人の企図の恐ろしさの部分がとりわけ重要でしょう。そこで、以下にはそれをその意味する通り真面目にストレートに受け取った思考を綴ろうと思います。

 

「物資と情報が絶え間なく」広範囲に行き交うこの現代─現在に本話のダイアローグを読む(聴く)と、ますます身近にその怖さを実感できてしまうところがあります。時代を超えるだけでなく時代を経てさらに強まる普遍性。本話の価値は今後も揺るぎないだろう…と喜んでばかりもいられません。

 

本話は「遠い過去に作られたフィクション」であり、『ウルトラセブン』の挿話である以上、その悪の源は星人存在に預けられる形で物語られます。が、現実の現代は「“メトロン星人”は“外星人”ではなく人類自身のうちにこそ密かに巣食っていて、多くの人々が『互いにルールを守り、信頼し合って生きている』ことにつけ込み、世界を自らの陰謀通りに進めているかのような時代」になっているといえそうです。

 

では、その現代における《赤い結晶体》とは、あるいはそれによる「実験」とは、何でしょうか。いくつも候補が思い浮かびませんか。あるいは、人によって思い浮かぶものは異なっても、何も思い浮かばないという人はいないのではないでしょうか。それらを合わせれば「このわずか数年のうちに、いくつも出てきている」ことになります。普遍的な比喩というだけならまだしも、実体のあるものにせよ実体さえないもの(情報・伝聞など)にせよ、そういったある具体的な形や様態を持った《赤い結晶体》が実際に「いくつも出てきている」のが現代である、ということです。また、それらの《結晶体》(の実験?)に惑わされ翻弄され、ほんとうに目を向けなければならない本来の脅威からはいつの間にか目を逸らされる…といったことも起きているのかもしれません。

 

ただ、気をつけたいのは、現代は“メトロン星人”が「自らの陰謀通りに進めている時代」ではない、ということです。あくまで「世界を自らの陰謀通りに進めているかのような時代」と言っています。「かのような」が重要です。まさに「“メトロン星人”の陰謀通りであるかのような事態が進む」のを何としても回避するためにこそ、まずは何よりそこを忘れてはいけない、とも考えます。

 

note マガジンの記事「ひとりぼっちの宇宙人─ウルトラセブン視聴記─ 「狙われた街」と現代」には、この投稿とほぼ同じ内容の部分に加え、《ダンとのダイアローグ》以外の面についても書いています。よろしければそちらにも訪れて頂けると嬉しいです。↓


https://note.com/syu_tyo/n/n04eb21c76abf

 

トリカード・ムジーカの集い ─2022年7月─

弦4部、Cl.1、Hr.2、Tp.3、Pf.、指揮者の12人による先月のトリカード・ムジーカ。写真は、集いの様子は撮らなかったので代わりに演奏曲の総譜を。

 

現トリカード・ムジーカの編成には特に音のすこぶる良い“ホーム”のホールに場所が戻った上に、史上初めてトランペット奏者が3人集まったので、シベリウス第2の、フィナーレの冒頭からBまでとR付近から終結までを初見で合わせてみました(写真3〜6枚目)。残響豊かなホールに予想以上の壮麗な響きが広がりました。

 

1987年冬の大学オケでの同曲の演奏は、数年後の同オケの演奏会のアンケートにも「小西のシベリウスがまた聴きたい」と書く人がいらっしゃったほど人気がありました(ホント)。その当時も弦の人たちは「シベ2は意外といける(易しい)」と口々に言っていましたが、今回も「おいしい」という声が(笑)。

 

エロイカ第1楽章コーダ、例のトランペットの主題の所(写真1枚目)ですが、ここには昔から私独自の秘策(注)がありまして、久しぶりに1st、1アシ、2ndの3本という2004年“初演”当時さえ叶わなかったフル体制で秘策の音符の流れがパーフェクトに鳴るのを聴けて、たいへん嬉しかったです。

 

注:秘密にしたい気持ちが強いわけではありませんがブログで投稿拡散?するようなことでもないとも思い…。8小節の旋律の繰り返しの4回目、手前3回の構造を受ければこうする(なる)のが最も自然であり、自分としては「なぜ誰もこうしないのか、不思議で仕方がない」とずっと思っています…。「そもそもベートーヴェンがなぜこう書かなかったのか…自然過ぎてかえって気恥ずかしくなり、やめた?!」とさえ…と好機嫌ついでに口を滑らせておきましょう。

 

ブラームス第1、フィナーレ279〜284小節(写真2枚目:アルペンホルン再現の直前、シンコペーションの半音─跳躍音程の断続するいかにもブラームス的な箇所)で「4分音符をテヌート、具体的には“8分音符2個をタイでつなげた音”として感じて弾いてください」とお願いすると、8分休符については一言も触れていないのに、1つ(2拍)進む度にどんどん溜まっていってテンポにブレーキがかかっていき…明らかにやり過ぎているんですが、止めてやり直す気には少しもならず、大時代的事大的表現が生まれる瞬間に自ら立会えた喜びを味わいました。こういう合わせ方って、直接その流れを意図/指示してやるようなことではなく、意図/指示したところでそうそうその通りにできるようなことでもなく…。ひょっとすると19世紀生まれの巨匠たちを前にした昔のオーケストラの奏者たちは、自発的にこのように感じて弾いていったのかもしれない…という想像も膨らみました。弓を長く使う右手に加え、左手の押さえもしっかりするからなのか、音色も適度に湿度が出る感じで、「速くて軽くてカサカサ」の現代的奏法(の一つ)とは真逆の良さが出たように思います。

 

追悼・渡辺宙明 (1)

ご長寿で、現役でご活躍だっただけに喪失感が大きいですね…。
ご冥福をお祈り申し上げます。

 

残された膨大なお仕事…熱い主題歌/音楽の数々に思いを馳せつつ、そのいくつかについて、書いておきたいと思います。

 

まずは自分の素の思い出から2曲。
何と言っても

 

ハカイダーの歌

 

を第一に挙げたいです。
イントロから、強奏トロンボーンの裏で不気味な電子音がユニゾンでなぞる名旋律、主音─属音だけでなく属音の半音上も叩くティンパニ木管の細かな合いの手、トランペットの上昇…と、圧倒的なハイテンション。そこへ水木アニキのドスの効いた歌声…。低い歌い出しでアニキが気合いのため少し上ずるのにもゾクゾクします。このクォリティーで、主題歌でもエンディングでもなく一挿入歌とは…。本放映時小学2、3年生だった僕の耳にこの曲の端々が焼き付き、中学生になって再放送された時には、「またハカイダーの歌が聴ける!」と嬉々とし、ハカイダー登場編以後この曲が流れるのをいつも楽しみに待ったものです。TVの前にカセットテープレコーダーを置いて“生録”もしました??。特撮史上最強最高の魅力を放つ悪の戦士ハカイダーを歌う曲として、どこもかしこも「こうしかない」という驚きの完成度。宙明先生が、ハカイダーは『人造人間キカイダー』の物語にとって特別な存在であるということを十分に理解して作られたのだろう…と確信的に想像します。逆にまた、この曲あってこそハカイダーの存在の意味が定まり深まり、その価値が揺るぎないものになった…ともいえます。

次いでは

 

キカイダー01

 

日本歌謡随一の名歌手・子門真人のベストナンバーの一つでもあります。
30年ほども前になりますが、2曲のメドレーを吹奏楽に編曲して演奏してもらったこともあります。「ハカイダーの歌」は、聴きたかったので、あえてCl.をTacetにしました(笑)。キカイダー01へのブリッジ・パッセージは我ながら上出来?。指揮者畏友Sの採った速いテンポに胸踊り…、編曲はともかく演奏はオリジナルを凌駕する勢いがありました。

もう一つ、

 

オー!! 大鉄人ワンセブン

 

も、番組視聴当時から今日に至るまでずっとメロディーを空で歌えてきた1曲です。「(ストーリーは忘れても)歌は残る」の典型です。ただ、作曲が宙明先生だとは、最近になって改めて資料に当たるまでは思いもよらず、え!これが渡辺宙明?とその意外さに驚いたものです。いつも?の曲調とは明らかに違う、それだけに、いい意味で普通の、普遍的ともいえる旋律造型を獲得している…。途中、伴奏に007のテーマと同じ和声進行が差し挟まれ、「7」つながりで発想されたのかな、とも想像できて何だか楽しいですね。

 

自分の子ども現役時の視聴・記憶ではなくずっと後になって知ったものの中で最も目を見張ったのはやはり

 

みなしごハッチ

 

ですね。テンポを遅くした分、そこに16ビートを詰め込んだ、複雑な構成による凝った作り込み。演奏も歌唱もかなり高難度と思われます。前奏の前奏は『人造人間キカイダー』のダーク破壊部隊ロボット登場シーンの音楽に酷似していて、あのハッチの顔はまず浮かばない(笑)。知名度が低いとすれば、それは全体を覆うとっつきにくさ・難しさのためでしょうか…。だからこそ、今、番組の懐かしさなどは置いて、純粋に曲自体を音楽として味わうレパートリーにふさわしいと思います。

 

戦えイナズマン
勝利だ! アクマイザー3

 

は、サビのヒーロー名呼称の旋律が印象的な2曲。
「戦え我らのイナズマンイナズマンイナズマン!」の箇所(の特に1つめの読点まで)に当てられた音符は、単純なのにどこか非凡で、一度聴くとそのあと何度かスルメを噛むように口ずさんで味わいたくなる一節です。

 

「アクマイザー、アクマイザー、アクマイザー、3!」の「ザー」の最初の2つの1小節半=6拍におよぶ長い伸びに、この3人の“存在の悲しさ”が表現されている、といえばいささか大げさに過ぎましょうか…。

 

子ども現役当時、『イナズマン』は未視聴、『アクマイザー3』は視聴していたことは覚えているも『大鉄人17』と違い主題歌は忘却(頭掻)…。今これらを愛でるのがノスタルジーからだけではないことの証ともいえます。

 

 

『シン・ウルトラマン』─オマージュの宝箱 note

『シン・ウルトラマン』についての拙稿をnoteにアップしました。


https://note.com/syu_tyo/n/n6b113c187be0


ご一読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしく。

 

《光の授受》の挿話 ─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─ ウルトラマン第一話の形態学

『シン・ウルトラマン』、『シン・ゴジラ』よりはずーっとよかった(笑)。いずれ何か書こうと思います。

 

さて、「《光の授受》の挿話─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─ ウルトラマン第一話の形態学」note上の6回の連載─マガジンがようやく完結しました。アイキャッチ画像もリニューアル。ただ、前回の投稿にも書いたように、コスモスの指人形は手に入らず、ソフビと指人形の混在するものとなりました。コスモスに特別感が出るのは本稿の内容にも沿っているので、これはこれでいいかな、とも。訪れてもらえれば嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。

 

https://note.com/syu_tyo/m/mb415987379e5

 

ウルトラマン(総称)には、“変身の相方”の人間がいる「不同型」と、ウルトラマン自身が人間に変身している「同一型」とがあります。多数派は不同型で、『ウルトラマン』(1966年)から『ウルトラマントリガー』(2021年)までの24作のうちの18作が不同型で、全体の4分の3を占めます。本稿では『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンエース』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』『ウルトラマンコスモス』『ウルトラマンマックス』の9作品の第1話についてその不同型主人公の《光の授受》の場面を比較しています。私の普段の専門(笑)は「同一型」のモロボシダン=ウルトラセブンなんですが、本稿で初めて不同型について論じてみたのでした。

 

本稿を進めるうちに、意外にも?『ウルトラマンダイナ』について改めて興味が湧きました。『ダイナ』の第1話には、今まで気づかなかった「不同型/同一型の分類」の“奥行き”のようなものが少し表れているように思えたからです。『ダイナ』は、同一型とはもちろん違い、不同型に分類されますが、他の不同型とは微妙に異なるともいえます。《光の授受》以前のダイナの存在が明確でないのですね。このようなあり方は今回採り上げた9作の中では『ダイナ』だけです(→注)。《光の授受》場面で、光を授ける存在が「光の巨人=ダイナ」としては現れず、まさに「光のみ」が現れます。なるほどこの端緒がすでに、あの最終回への布石となっているのか…とも。


シン・ウルトラマンも、─ネタバレに気をつけつつ言うと─ダイナとはまた意味合いの異なる“微妙な面を含む”不同型、といえそうです。──いや、あるいは同一型でしょうか?…

 

注…タロウも《光の授受》以前には存在しませんが、「タロウ自身の誕生」の意味合いを持つ『タロウ』の《光の授受》としてはそれが当然といえます。また、《光の授受》を担うのはタロウ自身ではなくウルトラの母(やウルトラ五兄弟)であり、まさに明確に存在し、それでこその《光の授受》となります。

 

===連載初回「まえがき」===
ウルトラマンの“存在の仕方”には、ウルトラマンとそれに変身する人間が別人である場合と、ウルトラマンの方が人間の姿に変身している場合(同一型)とがあるのは周知の通りです。前者は憑依型とも言われるようですが私の用語では不同型と呼びます。

この「《光の授受》の挿話─ナゴール的な、もしくは非ナゴール的な─」は、平成第2期までの主な不同型ウルトラマン9作品の第1話について考察したものです。

もともと私の関心は、ウルトラセブンをはじめとする、少数派の(苦笑)同一型に対する方が大きく、それは今も変わりません。が、6年ほど前、平成第2期までのほぼ全作に渡ってその第1話=物語の端緒を比較しつつ論じてみようと思い立ち、進めるうちに、まず不同型だけをまとめて扱うのが適当と考えるに至りました。それから数か月で「光の授受の挿話」としてほぼ完成したものの、発表の機会のないまま眠らせていました。今回、noteデビューの記念として公表してみようと考えました。連載という形にして数回に分け、手を加えつつ徐々に投稿していく予定です。

以上のような経緯ですので本稿のベースのアイデアは2015年頃のものであることをお断りしておきます。