音楽の編み物

シューチョのブログ

7/7(日) 河上隆介指揮セブンスター・オーケストラ「展覧会の絵」

7月7日(日)文京シビックホール、河上隆介指揮セブンスター・オーケストラ第15回記念演奏会。
 
河上隆介さんと小西収は2001年の女満別小林研一郎指揮法セミナーで受講生同士として出会い、打ち上げで意気投合。その後、かたや脱サラ “転向” しプロの道を歩み、かたや紆余曲折しつつ(苦笑)生業教員はそのままに自設合奏団とOB吹奏楽団の指揮者となりましたが、大事な部分の情熱は双方とも変わらず持ち続けています。その大事な部分の一つが今回の楽屋トークでも話題に挙がりました。すなわち
 
──指揮(法)とは何某かの身体表現であり、その身振り/立ち振る舞い自体が、今まさに演奏して生まれ出んとする音楽を直に表す…そのような指揮こそが目指すべき指揮である──
 
「やりたいことが振り方に表れるような指揮」をする。彼も私もそういう考えです。それはつまり、そうではない(なさそうな)指揮者も周りにはいるということでもあります。
 
さて、では演奏会の感想を。すでにずいぶん日が経ってしまいましたが、今思うこと・書けることがあるような気がします。
 
 
ラフマニノフ「交響的舞曲」
 スコアを手元に広げつつ、すべての拍に的確な打点を与えて手堅く振り進め、この難曲をオーケストラと一緒に乗り切っていく姿に、少々大げさながら “同業者” としてとても心打たれました。難曲とはすなわち難局であり、この自分も当然遭遇するのですが、そんなとき、なかなかうまく行かなくとも決してくさってはいけない、諦めずに局面の打開のために手を尽くすのが指揮者の仕事だ…と、改めて襟を正した次第です。──念のため。今回の演奏は、うまく行っていない所も危なっかしい場面も無い、よくぞ仕上げたと言える素晴らしいものでした。だからこその上記の感想です。どうぞ誤解無きよう。──表現上のことを一つ言うと、スコア冒頭の Non Allegro という独特な指示。楽屋でも話題になったのですが、河上マエストロのテンポはこれをよく体現していて、初めに表れる16音符の細かいモティーフの数々が忙しい感じにならずにしっかりと耳に残ったのでした。
 
 
ムソルグスキーラヴェル組曲展覧会の絵
 
 全体として、この「展覧会の絵」というレパートリーがまさに彼にとって自家薬籠中の1曲であることがビビッドに伝わってくる演奏でした。オーケストラも見事。この曲はおそらく(ラフマニノフと違って)暗譜で行くのではないかと予測していましたが、休憩中に指揮譜面台が取り払われるのを見て、「やっぱりな!…」と。
 
第1プロムナード
 冒頭のトランペットの遅く穏やかで優しい吹奏に驚き。tuttiになっても表情は維持され、抑制が効いていて、却って耳を澄ませて大事に聴きたくなる、何とも淡い響き。…そうか、この冒頭は、友人の画家の展覧会に訪れ、今からその様々な絵と一人で対峙せんとして会場に佇んでいる情景なのだった…と思い当たりました。まさにそのような音楽として聞こえたのでした。友の絵を見るワクワク感を持った作曲者自身の視点から主語的に壮麗に鳴らすのではなく、その彼自身を含む会場全体を対象とする別の視点から“引きの映像”を撮るような目線。「叙情より叙事」ともいえ、その方が、それを聴くこちらの心はより揺さぶられる、という…。今思い出してもぐっと来ます。貴い鑑賞体験でした。
 
チュイルリー
 弦へのグリッサンドを明らかに棒で表現し、その前後に細かな緩急もつけるという、ニクイ小技ぶりが冴えました。上記の「指揮者表現の身体性」の話題にも直結します。ここでの彼の腕の振りや打点の出し方は、“たとえ音がミュートされても指揮者の動きだけでどんな演奏表現かがわかる” 指揮ぶりなのです。しかもチュイルリーで。同曲は同組曲中最も地味な部分であり、誰が何をどうしたかという演奏史的話題に上ることが最も少ない部分といっていいと思います。そういう所へも明示的に独自の表現を挿んでくる、というその仕方にも、まことに共感するし、ますます自分との同類性、仲間意識を確認してしまいます(笑)。
 
ブィドロ
 遅く、そして静かに始まり、おーぉ!…と無声の溜息が漏れました。しばらくその抑制された節回しと響きが続くのを聴くうちに、「…これはムソルグスキーの『ドナ・ドナ』だ…」というフレーズ(やや平凡(頭掻)ながら普遍的ともいえる?)も思い浮かびました。帰路でスコアを確認すると冒頭の強弱指示は確かにppであるなど、この曲の楽譜の音符や記号がどこもとても新鮮に目に映ってきます。第1プロムナードもそうでしたが、この「ブィドロ」からも、私にとっては過去知る限りのどの演奏からも受けたことのないような、新たな深い印象が刻まれました。
 
サミュエル・ゴールデンベルクとシュムイレ
 ラヴェル編「展覧会の絵」では、随所でトランペットが活躍します。今回、プロムナードといい、このシュムイレといい、その堂々とした演奏表現から、指揮者とトランペット奏者の相互の信頼が十分獲得されていることが伝わってきたので、「彼の吹奏があってのこの曲か…」という感じさえ覚えました(実際の選曲過程はもちろん存じませんが)。…このトランペット奏者の方とは、終演後に河上さんがひき会わせてくれ、直に賞賛をお伝えできました。彼も語ってくれて、河上先生との長年の関係について、ほぼ私が演奏中に感じた通りのことを彼自身からも聞くことができました。
 
キエフの大門
 私的鑑賞史上最速のテンポで進み、膝を叩きました。私も、この旋律の4分音符が並ぶ動機部分(第3、5、7小節や木管が加わる 104〜 など)は、“速めにすればこそ歌える” 動機の典型例だと思っていました。対する 106〜 と 109〜 は “立ち止まる” 所だと考えます。河上さんはそれらでテンポこそ落としはしなかったようですが、途中のフレーズの節目で楽譜に無いパウゼを一瞬置いて、明確に造型していました。大賛成。そして後半、冒頭主題の譜割が倍の遅さになって提示される 114〜 の部分でも、冒頭と比べてもわずかに遅い程度、つまり “譜割倍増感” がほとんど感じられないように進みます。それによって、ただせかせか速いだけの小粒な演奏になるかというとまったく違って、冒頭で示した颯爽としたテンポ感の造型が終結まで一貫していることで「実に立派な音楽だった」という聴後感が生まれるわけです。
 
 
私はというと、「展覧会の絵」についてはこれまで “マイプラン” をしっかり考えてきたわけではなく、例えばキエフの 114〜 以降についてなども自分はどうするのか未だ定まってはいませんが、白状すると「早く終わるのはもったいない」みたいな俗な感覚(苦笑)もあって、その克服(折り合い?)をどうしようかというところ。いずれにせよ今の私の「展覧会の絵」は、彼のそれにはまだまったく太刀打ちできず、さらなる精進が必要ということだけは痛感し、改めてスコアを復習する帰路となりました。

劇団でこじるしー 激闘!ハッピーファクトリー

2023年11月23日
劇団でこじるしー  第13回公演
激闘!ハッピーファクトリー

早ひと月ほど経ちました。2年ぶりの観劇に感激。
 
劇団でこじるしー を初めて観たのは、妖怪ナゼコが初?登場した年。「なぜと訊くな」「なぜと訊いたな〜!」の“大嵐!(椅子取りゲーム)”的一言ですべてをひっくり返す衝撃パワーの恐怖から早数年、今回はロボットと人間をテーマにした哲学的大活劇。ロボットとは何か。ロボットは人間になれるのか。人間とは何か。……そこには、私の専門?である特撮論の観点からは『人造人間キカイダー』のキカイダー存在論や「ハカイダーの悲劇」、また、差別問題をロボット物語に託した『鉄腕アトム』、そして人間そのものの定義を綴った?ハイデガーの「現存在」、等々、(ロボットの存在から)「人間とは何であるのか」という実存の問題へと行き着く過去の文化・思想の、私が見聞きしてきた狭い範囲ではあれそれらのおよそすべてが盛り込まれた、すごい演劇でした。二転三転で繰り広げられる物語展開を、これはいったいどこへ行く?と息を呑みつつ追っていった先の最後、「殺さない理由とは」という問いに主人公の一人が応答する山場で出た語句は「直観」でした。理由など要らないという、おそらく最も確信されるべき理由。…人によってははぐらかしのようなオチに聞こえたのでしょうか?ハイデガー倫理学者も怒り出すかも?けれどもこの私にとっては、敬愛愛読する柳宗悦のこのキーワードが出た瞬間に、この日一番の共感/感動の波に打たれ、全身にしびれが走ったのでした。その哲学的問いに芸術文化が為すべき応答/回答は(もちろん語句のみでなくそこへ至る諸々を含め)これだ!と改めて確信できました。
 
さらに驚くべきは、これだけ錯綜した物語を、たった一回のリアルタイムの観劇で、不明点がまったくない形で鑑賞できたことです。もちろん、実はこちらが気づきえなかった含みはまだまだあったかもしれないにせよ、“初見で落ちる(アマオケ用語?)”ようなことにはならずにしっかり筋を追跡できたと思える後味・達成感があり、観る側としてはすごく嬉しかった。それでいて、「あぁ楽しかった」だけに終わるのでなく、その内容はその後も尾を引き、未だに深く考え続けるきっかけにもなっている、という…😌。
 
(今回は原作は別の方で共作?だそうですが)作者兼演者の川上立さんの筆力と演技に脱帽。以前のナゼコ役で今回はいわゆるヴィラン役の細谷明代さん(写真)にも、またまたすっかり魅せられました。

#劇団でこじるしー
#第2劇場
#輝け子どもパフォーマー事業

ふたつの月の間には♫ カイマナふぁみりー ライブ

 20231118日土曜日、カイマナふぁみりー の生ライブが4年ぶりについに実現!

 

 いやぁ、待ちましたそして待った甲斐がありました。あり過ぎ。たくさん聴けた曲の中からいくつか選んで書いてみました。毎度の野暮な長文ご容赦。カバー弾き語りソロや圧巻の「ダイナミック琉球」等への言及を割愛してもこの分量、書き過ぎの自覚大いに有り。それでも、201812月に京都ライブの感想でも書いたことは、不変であり普遍的だと考えます

 

──

一つの芸能芸術の内容は、それへのどんな解説感想よりもそれ自体の方が必ず繊細で豊かで、全貌はとても書ききれるはずもないこともまた事実です。

──

 

「横浜フォーク酒場マークII」はカイマナふぁみりーのいわばホームグラウンドのひとつ。カイマナふぁみりーライブの開始前には常連の方々?によるオープニングアクトで本格フォークの歌唱・演奏もありました(駆けつけ遅刻の私は終わり近くしか聴けず残念)。

 

 

 観客は、Youtube配信のチャット交流で互いに親しい、それゆえ多くはおそらく初対面同士、すなわちカイマナふぁみりーとその音楽を愛するということのみで繋がった人たち。といっても私はチャットのリアルタイムのやりとりは苦手で、よく黙り気味のまま失礼することも多いんです。そんな私でさえ、みなさんにお会いできあるいはお見かけできたそれだけで何だかすごく嬉しくなりました。隣に座れた(旧知の)いたりーの さんや席が近くの他の方とも「まさにディープなオフ会」「いや?今がオンでしょ」と。

 

 

「ルシンダの宝物」(カイマナふぁみりー)

 前奏が始まると、会場のマークIIがみるみる優しい熱気で満たされていくのがわかります。ここへの愛を度々語っていた海愛リオさんの気持ちが、今回初来訪の私にも何だかよくわかった気がしました。

 「ルシンダの宝物」は、毎週のYoutube配信で通常ワンコーラス歌われるオープニング曲でもあります。カイマナふぁみりー全曲中でも珍しい、終始長調の作品。カバー曲でもほとんど短調を選ぶ彼らのレパートリーの中では実は異彩を放つといってよく、それを自らオープニングにプログラムするセンスが光ります。

 

 

シェルブールの雨傘」(ミシェル・ルグラン

 タイキさんのギター独奏。その繊細な撥弦は、純アコースティックのクラシックギターの名手のそれと何ら変わるところがありません。彼の独奏は、配信での「故郷」「涙のトッカータ」等の名演に親しんではきましたが、そういえば生で聴くのは初めてだったことに途中で気づき、ぐっとこみ上げてくるものがありました。するとそのこちらの胸中に呼応するかのように、終結近くで、彼の左手が指板を滑って曲が二度の転調を畳み掛ける箇所に差し掛かりもうすっかりやられてしまいました。これは参った。一人の若者による一本のギターが奏でるほんものの、ほんとうの器楽の声に、震える感動を覚えました。今回の私にとっての白眉。

 

 

「私はピアノ」(桑田佳祐

 「この曲は、低い語りと盛り上がるサビのギャップが魅力ですね!」と(たぶん)リオさん自身も書かれています(下記Youtubeページ)。彼女の実演に接すると、特にすごかったのは歌い出しのピアニシモ!短編小説の朗読が始まったかのようなその言葉遣い/息遣いは、そばに近寄って来て語られるようで思わず耳を澄ませる。それでいて台詞(無旋律)にはならず崩されもせずあくまで元の旋律が守られ歌─音楽として届く。その呟きのフレーズを聴いて、あぁ、そうか、この詞って、この曲って、こういう詞だったんだ、こういう曲だったんだと初めてそのほんとうの中身を聴いた気がして鳥肌が立ちました。その私には、下記動画の音声はそうした細やかさまでは十分に拾いきれていないようにも感じ誰のせいでもない、録音というものの一面の本質、まさに生ライブの空気感の伝播の賜物です。独自の旋律のスキャットも美しい。全編まことなる音楽造形がそこにありました。

──シャレたオチの一言が添えられた曲紹介も含め、Youtubeで視聴できます。──

https://www.youtube.com/watch?v=xzAt3nZe7bk

 

 

 それにしても、どの曲も、タイセイさんのギターの堂に入った弾きっぷりはどうでしょう!彼の発する音もアクションもまさにキレッキレ。常に全身に音楽の血流が脈打っていることが伝わってくる。興が乗るほど反り返るのでなく前傾していくそのスタイルを見て、フォルテの打点を上から大きくでなく下へ下へと屈んで振っていく往年の巨匠指揮者カール・ベームを僕は思い出しました(ぜんぜん関係ないけど(笑))。今やカイマナふぁみりー中最も背が高くてカッコいいギタリストに大成長したタイセイさん。自分の背丈より大きいかのようなギターを抱え/ギターに抱えられ、そのネックを振り回して/ネックに振り回されて弾いていた頃の彼を知る一ファンとして、深い感慨を覚えずにいられません。終演後、彼からハイタッチを促されて応えたとき、嬉しかったなぁ

 

 

「ふたつの月」(Rio/海愛愛流)

 「タイセイはあれ?コードストロークあっそうかここはリオのソロだった!」と思う一瞬が僕には未だによくあります(頭掻)。この曲の前奏後奏もその一つでした。─さらには、普段はベースラインのタイキさんがふとソロをとるときもあり、見逃せません─。

 ボーカルのリオさんは、ギターも、両隣の弟二人に並ぶ、どころか姉としての一日の長も感じさせる一級の腕前。ともあれ、この1曲を聴くだけでも、彼らの音楽はどういうものかが、どんな魅力を持つのかが、十二分に伝わることでしょう。無二の歌詞世界としなやかな旋律美が沸騰するリズムの躍動の中に詰め込まれた、名曲の名演。帰路の新幹線、私の頭の中ではずっとこの曲がリフレインし続けていました。

──この日の演奏も先日Youtubeにアップされました。ぜひ!──

https://www.youtube.com/watch?v=gi9uCBmIPG0

 

カイマナふぁみりーのYoutubeページには、他にも続々と11/18ライブの演奏曲の動画がアップされつつあります。

 

 

「透明な夢」(Rio/海愛愛流)

 Rio 作詞/海愛愛流 作曲編曲 による新作の一つ。4年前には聴き得なかった新たな曲がいくつも聴けるというのも「待った甲斐」の一つ。カイマナふぁみりーの無理のないしかし着実な歩みが嬉しい。

 パパとリオの二重唱。熱唱に打たれました。以前、初めて京都ライブを見たとき、演奏中、前で歌い弾くリオさんたちにパパが後ろから指揮するような身振りを送っていたことを思い出します。「あぁ、この人は仲間だ」と(勝手ながら思い)泣き笑いの嬉しい気持ちがこみ上げたものです。指揮者として同類、もそうですが、リオさんらには見えないけれども「後ろから」振っている、そこに何だかとても共感できたのです。パパの演奏/歌唱の姿にはどこか遠慮の雰囲気が漂っているとずっと感じてきました。有り体に言っても、パパはこのバンドの総合プロデューサーであり精神的支柱であり、彼あってのカイマナふぁみりーといえ、もっと押し出しの強いキャラで通してもよさそうなのに、普段は前面にあまり出ず、後ろから見守っている。そして、パパ自身がリードボーカルもとる曲目になってやっと、ふと、隠しきれない情熱・情感が咳き込むように溢れ出てくるのです。そんなパパの熱量を今回私が最も感じたのがこの「透明な夢」でした。今こうして書きながらも目が潤みます。「後ろのパパ」も素敵で魅力的なのはもちろん、「溢れる瞬間」の方もさらに増えれば嬉しいです。

 海愛愛流さんへ、心からの敬愛を。

パパと、念願のツーショット

打ち上げ会での姉弟デュオ

ジャケ買い狙い?のタイセイ氏😃

フェレイラのモーツァルトCl.協奏曲

カルロス・フェレイラのモーツァルトK.622。マルティン・フレスト以来の親近感。自分がパラレルワールドでCl.奏者になっていれば、両者の中間くらい?フレストみたいな動きでフェレイラのように吹いているかも😆。

持続音のふとした間の取り方、強弱のコントラスト、プチ装飾・プチカデンツァの音型、どれも、ハッとさせ、またチャーミングです。

アーティキュレーションも、同音型でもオクターブ違いで変えたり、面白いのもそうですが、たぶん、吹きやすく吹いている。吹きやすい方が無理なくおいしく表現できるという面を隠さない。技巧披露第一でないことが見てとれ、好感が持てます。

その吹きやすさにも関連することに、この曲には、バセット音域のオクターブ処理の話題がありますね。既存の楽譜は概して無用に音域が高く難しく…、一推しのフレストはバセットクラリネットを使ってオリジナルの音符を吹いて(しまえて)いるので参考になりえず…でした。普通のA管使用のこの演奏におけるフェレイラの処理は、彼独自のものなのか他の人もやっているのか、はたまた最近はそういう版も出ているのか、詳しくは知りませんが、どれも納得が行くものでした。第1、2楽章の随所で既存楽譜とは別の処理によって実に自然に音楽が流れます。これまで僕には思いつかなかったやり方もいくつか聞かれ、なるほど!と膝を打ちました。…ということはフィナーレの例の、既存楽譜だと超技巧的な箇所(クラリネット吹きなら誰でも知るトピック)でもおそらくやってくれるのでは…と予想していると、その通り、シャルモー音域の機敏な動きで応えてくれ、爽やかな感動を覚えました😃。

伴奏のルーマニア室内管弦楽団も、終始活き活きとして雄弁、すばらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=B86uXl3qHjA

阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』

阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』
2019年、ちくま学芸文庫)──同名書(1987年、リブロポート)の文庫化──

 

法然の衝撃』『親鸞・普遍への道』『日本人はなぜ無宗教なのか』等、著者の宗教論・仏教論にはいつもぐっと引き込まれ、熱い読書体験となったものです。本書も出てすぐ入手、積ん読中でしたが、ちくま学芸文庫版『民藝四十年』が出たタイミングでこちらをまず読んでおこうと思い立ちました。今回も以前と同様にその太い筆力に誘われるまま、一気に読了。

 

 

────

 では、その問いとはなにか。それは、一言でいえば、無名の職人によって無造作に作られる工芸品が、どうしてどれも美しくなってしまうのか、という問いである。

──92頁)──

 

────

 いずれにせよ、専修念仏においては、凡夫は / / / / / で、その / / / / / / 姿/ 阿弥陀仏によって救われてゆく、と教える。柳宗悦の心をとらえたのはこの / / / / / で、あるいはその / / / / / / 姿/ で救われていくという点であった。それは、特別な知識や才能をもつわけではない職人の作品が、なぜか例外なく美しくなるという民芸の事実をよく説明してくれるのではないか。凡夫を職人という言葉におきかえ、救われるという言葉を美しくなる、と置きかえてみれば、一目瞭然であろう。職人のつくるものは / / / / で皆美しくなる!

──98頁、著者傍点を“/ ”で代用)──

 

 

柳宗悦が「用の美」の語に込めた力点は、当然ながら「美」の方に置かれています。無名の工人の作った「用のもの」にことごとく美が宿っている。直観によってその「美」を受け取ったからこそ、その源としての「用」を柳は尊ぶ。「用」ゆえに尊ぶのではなく、そこに「美」を見とめるゆえに尊ぶのです。このことは、柳をある程度読んでいけば、私のような寡読な者にさえ確信できます。「美しい」が先ですね。柳はその直観は疑わない。疑いようのないその現れこそが直観(されたもの)だからです。嗜好とは違い、まして「何を美しいと思うかは人それぞれ」などという言い方・捉え方からは遥かに隔たっている。無名の手工藝品が美しい。それらが「どれも美しくなるのはなぜか」と柳は問い、工人の他力門への帰依によるという答に行き着いた、ということでしょう。

箕面高校OB吹奏楽団第10回記念演奏会を終えて (7)

「黄金の調和」創作秘話1

 

2022年末から2023年始にかけて「黄金の調和」吹奏楽版を書くことに集中、ようやく第1稿と言えるものに到達し、制作過程に一段落が付きました。

 

5番の決定稿のバッサリ感がすごいシベリウス🐰

 

1番を書き上げるのに20年以上を費やしたブラームス😌

 

弟子の言うことを聞いて(真に受けて)一度完成した曲を何度も改訂したブルックナー🐰

 

リンツ」を3日で書いたモーツァルト😮

 

リンツ」のスコアを写譜してみたら3日では終わらなかった😆という三枝成彰

 

──念のため。(昔どこかで読んだんですが出典不明事実とすれば)実際にこういうことをやってのける三枝さんもすごい。彼への敬意ももちろん込めています。──

 

など、異次元の作曲家たちに遠ーく思いを馳せつつの産みの苦しみ?の日々でした。

 

「黄金の調和」の字面を見て「あーぁ、そんなんあったねー」と思い出してもらえる方、ありがとうございます。旧作は管弦楽版で、こちらの初演─たいへん小さな発表機会でしたがそれでも“一般客が入った公演”─を果たせたのは懐かしい思い出です。

 

その管弦楽版の着想─完成から約25年。1つの「フーガ風幻想曲」“に過ぎなかった”?「黄金の調和」が、今回の吹奏楽版では、IIIIII IV4つの部分からなる、曲間を含めると演奏時間が10分を超える「交響組曲」に仕上がりました。「交響組曲」を冠するのはやや大げさで照れるも、同規模/類似様態の吹奏楽曲名として通用されているようなのでそう添えることにしました。いずれにせよ、長期の“寝かせ”を経ての発酵が、まさかこのような形に実ってくるとはまったく想像だにせず。

 

「黄金の調和」という曲名=愛称を外すことも考えたのですが、ユーモアこそ大事かとも思い、いまのところ残しています。今でこそ「ネスカフェ ダバダ」とかのキーワード検索一発で原曲を通して視聴できますが、着想当初の1990年代後半当時はまだ、幼少時にCMで実際に流れた旋律と伴奏の音型の聞き覚えだけが頼りでした。「目覚め」というタイトルも確か制作途中か完成後に知ったんだったかと。

 

今回の吹奏楽版の中では、II の部分が比較的独創度の高いものに仕上がったと思っています。が、もともとが八木正生「目覚め」へのオマージュであってゼロからの創造とは違いますし、加えて複数の箇所で(八木正生以外の)特定作曲家作品の既視感(どこかで聴いた感)があからさま過ぎる部分もあり気恥ずかしい限りです。ただ、単にそれ風にしたかったというだけでもなく、「目覚め」原主題の構造が自ずとそれを呼び寄せたという面が少なからずあります。

 

ハカイダーの悲劇

── note にアップした拙稿の短縮版です。こちらではサワリの部分を惜しみなく公開(笑)。よろしければワンクリックで note の方の完全版

 

https://note.com/syu_tyo/n/n7c954856a738

 

にも訪れて頂けるととても嬉しいです。お読み頂けるとなお嬉しいです。完全版では下記より長い本論に加え、「血液交換の時間」や服部半平について書いた補論もあります🙂。──

 

 

===まえがき===

30代の時に書き上げたものにかなり手を入れた一方で、随所のハカイダーへの思い入れの綴り方は“若書き”のままです。今の自分としては気恥ずかしさ半分ですが、その雰囲気はあえてそのまま残しておくことにしました。

======

 

悪の戦士・ハカイダー。『人造人間キカイダー』に登場する ジロー>キカイダーの宿敵。その姿形からして主人公のジロー>キカイダーを凌ぐ魅力を放ち、全身黒一色、脳が透けて見えるトランスルーセントの頭、ブラックジャックの手術痕にも似た、頬を斜に走る黄色い稲妻、胸板と肩幅を強調する半月型の鎧、腰にではなく脚に備え付けられた銃、この造型美・意匠美🌝。等身大ロボット系の造型・意匠として、このハカイダーを凌ぐキャラクターは未だに出ていません。

 

ハカイダーが古今の悪のキャラクターの中で一際異彩を放つのは、彼が光明寺博士の脳を自らの頭脳とするサイボーグだからです。完全な人造人間=ロボットである他のダークロボットや ジロー>キカイダー 自身よりも、唯一人間の脳を持つハカイダーの方が、より人間に近い存在、“人間的な存在”なのです。

 

さらに、飯塚昭三氏の「声の凄み」が、ハカイダーの存在形成の大きな部分を占めています。ハカイダーのかっこよさは、ハカイダー自身の声の迫力を伴ってこそのものです。ハカイダーの飯塚性、飯塚のハカイダー😌

 

加えて、挿入歌「ハカイダーの歌」のすごさ。中学時代、夕方の再放送が始まったとき、何より「あのハカイダーの歌がまた聴ける!」と喜んだものです。渡辺宙明全作品中の屈指の名曲。このハカイダーを歌う曲として、どこもかしこも「こうでしかない」という驚きの完成度。逆に、この曲あってこそハカイダーの存在の意味が定まり、その存在感が揺るぎないものになったともいえます。

 

ハカイダー語録🐰

───

キカイダーはこの世で俺のただ一人の強敵だった。キカイダーとの勝負だけが俺の生き甲斐だった」

「そのキカイダーを倒したアカ地雷ガマ、俺はおまえと勝負しなければならん」

注:この2つは詳しくはサブロー(ハカイダーの変身前の姿)の台詞。

───

 

───

「俺は、俺は何だ!俺は何のために生まれてきた?アカ地雷ガマは倒した。キカイダーは死んだ。これから、俺は何のために生きていくんだ」

「俺の目的は何だ。こんな姿で、俺はどうやって生きていくんだ」

憎い!俺を造り出したプロフェッサー・ギルが憎い」

注:ジロー>キカイダー はアカ地雷ガマの爆弾で空中分解するも、その後蘇生。

───

 

───

「奴は強い、俺よりも強いどうせなら、キカイダー、俺はおまえに、おまえにやられたかったぜ

注:「奴」とは、ギルが送ったハカイダー・キラー=白骨ムササビのこと。

───

 

キカイダーよりも強く、キカイダーを倒せる唯一の存在であったはずのハカイダーは、キカイダーに、勝てば存在意義を喪失し、負ければ自分が倒れる、そのどちらかでしかない存在でした。そして実際はというと、真偽不明のまま、白骨ムササビの凶牙に倒れました。いずれにおいても彼には死しかなかったといえます。自分の存在意義自体が自分の存在を必然的に否定してしまうという、根本的矛盾。ここに《ハカイダーの悲劇》があります。まさに、「ハカイダーの歌」に歌われる通り、ハカイダー自身にとっては、「キカイダーを破壊」するという「俺の使命」こそがそのまま「俺の宿命」であったということになります。

 

ハカイダーの最期の言葉、それは、自分の存在の支えであった宿敵・ジロー>キカイダーに向かって、「俺を倒した奴を、おまえは倒せるか?」と問い、「俺が倒されたかったおまえにこそ、奴を倒してほしい」と願った、凝縮された言葉だったに違いありません。