音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (48) ゴジラvsメカゴジラ

 「ゴジラvsメカゴジラ」を視聴。以前の記憶と比べれば少し好印象を受けました。ベビーゴジラがいいですね。影の主役です。精巧な着ぐるみ造型、目や手足の動き、鳴き声、それらが違和感なく丁寧に統合されていてキャラクターが確立していて、そのことに呼応して、登場シーンにおける物語内容や演技・演出もうまく行っている。五条梓(佐野量子)とベビーゴジラのコンビも、それぞれのルックスの愛らしさが相乗効果を生んで、ともすればクサイ展開/台詞さえ心地よく受け入れられます。

 しかし、やはりメカゴジラが映る度にがっかりするわけで…。顔の不細工さを決定づけているのは、上顎の無意味な出っ張りだと思います。これは“むくんだ烏天狗”ですね。ゴジラvs烏天狗。次いでは両脚の異様な太さ。おそらく、「(蛇腹だった初代と違い)関節にもメタル感を出す」だとかいうコンセプトにこだわったためでしょう。

 

 さて、同様の指摘がすでにあるのかもしれませんが── 平成ゴジラシリーズでは、「ゴジラは元来悪役」という「原点回帰」はよいとして、メカキングギドラメカゴジラ、モゲラというロボット型怪獣がみな人類の傀儡ロボットになった。そこに何か白けたものを感じてしまう。メカでない初代キングギドラは言うにおよばず、初代メカゴジラにしても、凶悪な宇宙人がよこした圧倒的な侵略兵器として登場、そうしたキャラクター設定だけでもう、十分存在感の押し出しがあります。それが「人類の英知を結集」とかいうと鼻白む。平成メカゴジラという、どこからどうみても悪役的意匠であるあの「怪獣のようなロボット」が、どうしてまた「人間の味方」なのか。どうにもヘンな感じです。これに対して、例えば「対メガロ」のジェットジャガーは、般若顔だったり、途中で巨大化したりと、めちゃくちゃなんですが、「人型である」という重要な意匠的特徴によって、「味方」という存在意味がぶれずに済んでいます。また、「×メカゴジラ」のメカゴジラ=機龍(この呼称は頂けないのですが)になると意匠的には少し改善されスマートなヒーロー(ヒロイン?)型になってはいます。

 

平成メカゴジラに戻ると、遠隔操作でなく乗組員が乗り込んで操縦するというところにも、わざとらしさが表れてしまう。

 

初代メカゴジラは、「操縦」されているわけではありませんでした。初代メカゴジラは確かに命令によって動くのですが、それは彼自身がまず何らかの意識のあるロボットであって、その意識が自ら進んで命令に従っている、という描かれ方でした。「メカゴジラ、早くゴジラをやっつけろ」とかいったアバウトな命令も、「シナリオが粗いだけ」というなかれ(笑)、「それによって却って、命令をどう実行に移すかはメカゴジラ自身の意識にかかっていることをちゃんと描いている」ともとれるのです。つまり狭義の「操縦」とは違うわけです。

 

対する平成メカゴジラは、スーパーXと変わらない、ただの機械なわけですね。唐突に思い出しましたが、それならヤッターワンの方がよっぽどいい。ヤッターワンの左手(左前足)のレバー、あの「自ら自分を操縦する」という深いトートロジー(笑)。すごいなあ、と言いたくなります。

 

取り留めがなくなってきたので断章とします。