音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (23)

 ──以下、映画『ヤッターマン』について多少の“ネタばれ”を含みますことをお断りしておきます。──

 映画『ヤッターマン』を見ました。これは完全に大人向けのエンターテインメントです。もちろん、旧作オリジナルアニメーションの世界に親しい大人という限定にはなりましょう。その手のものとしては、たいへん良くできていると思いました。

まずキャスティングがよい。生瀬勝久ケンドーコバヤシの2人は、これしかないと思わせるベスト配役。よくぞ選んだし、またそもそもよくぞいた(笑)。本人たちも「われわれしかいない」と思っているでしょう。深田恭子もすばらしい。これ以上ない形にそっくりになぞった両脇のキャラクターを従えて振る舞うのに十分な、意外感と納得感とを併せ持った大きな存在となっていました。例えば『タッチ』における長澤まさみの起用とはまったく様相が異なります。実写化リメイクというものについて以前ここでも論じましたが、「オリジナル通りでなければならない」とだけ単純に言いたいわけではありませんでした。違ってもよいし、違うからこそよい、ということもありえる。深田恭子ドロンジョは、そういうところを説明するのに格好の例となりました。ヤッターマンの二人も、特に桜井翔の方はかなりオリジナルのキャラクターに沿っていて好感が持てました。

そして、作曲者山本正之本人の歌唱による主題歌。サブイボものでしたねえ。

ドクロ「ストーン」の復活も嬉しい。このアイテムの名前はドクロストーンでなければならない。理由は単純明快で、そうでなければ「天才ドロンボー」の1番が歌えないからですね。それほどに、『ヤッターマン』と山本正之の音楽は切り離せないもののはずです。現に、新作アニメ版のエンディングはこの曲ではなくなってしまっている。それで何が『ヤッターマン』か。いっそ、オープニングは新作、エンディングはそのまま、という方がオールドファンはかえって許すのでは…と想像します。いや、ほんとうは、どうしても「リング」に変えたいなら変えればよく、それでも、リズムを多少変更してでも「欲しいよ、欲しいよ、ドクロリング」とそのまま歌詞だけ変えればよかった。その方が現行のエンディングよりはずっとまし。リメイクとなると、製作側はどうしてもよけいなことを考えてしまう(考えざるをえない?)ようで、どういうわけか、決まって「そこは変えたらアカン」という根幹に抵触してしまう。

ともあれ、山本正之(の音楽)が、新アニメ版ではなく、この実写版映画において本格的に「再来」したことも、「ヤッターマンは本来アニメ」という短絡発想を抑えるのに十分な理由となります。

映像とストーリーの展開が、ハリウッド映画的な「息をもつかせぬ」というのではないところもよかった。CG中心の特撮はさすがにせかせか行くのですが、非特撮部分の台詞まわしやBGMが適度にかったるく、いい雰囲気を醸し出していました。

ゾロメカの群れが(たぶん)オールCGだったのは残念。せめて全台揃った静止画のカットだけでも(そういうカットを設けてでも)ミニチュアを並べてほしかった。あるいはさらに妥協すれば、本物のミニチュアは1台で他は合成で増やすというのでもよかったから、ゾロメカヤッターワン同様に「モノ」で見せてほしかった。

また、ヤッターワンの眼に瞳が無いのを見て、「覗き穴」をそのまま意匠化したウルトラセブンの顔は秀逸だったのだと改めて思いました。ヤッターワンは着ぐるみではないだろうから、セブンのような事情は生じず、ロボットとしてのリアリティーを出せたのですが、そのためにオリジナルの愛らしさはかえって失われた。しかしこれについては、それがまた実写的でよいとも言えますね。

それにしてもまあ、こんなにくだらない/無意味な世界によくぞこれだけ手間ひまとお金をかけたものです。真のエンターテインメントの一つの熟れた姿を堪能できた気がします。