音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (47)「ゴジラvsビオランテ」

 本稿はいわゆるネタバレ的内容を含みます。ご承知おきのほど。

 

 

 

 

 

 

 「ゴジラvsビオランテ」を視聴。やはり、ビオランテの最期の、光の砂の上昇に英理加(沢口靖子)の姿の昇天を重ね合わせるという描写は、私には受け入れ難く、場違いなギャグ漫画のようにしか思えませんでした。大人が集まってまじめに作って、どうしてこのような案が通ってしまうのかまったくもって不思議です…。それほどに人の感性というものは異なるものなのだろうと改めて言うしかないのかもしれません。ともかく、この描写は、本作を評価するに当たって誰しもが素通りできない一つの大きなトピックではあるはずで、そこに「違和感はない/あるがそれを差し引いても高評価/これこそに高評価??」という人たちの合計の方が多数派だったという今回の「総選挙」の結果に、私はただ深く項垂れるばかりです…。

 

 ここで、「ゴジラvsビオランテ」が私のワースト「ゴジラ」というわけではないことは繰り返し断っておきたいところです。誤解なきよう。全作の評価を整理し私的完全序列を発表するにはたくさんの再視聴が必要となりますが、たぶん、ブービー付近でさえない。ですが、ここでは、ビオランテの最期の描写以外の首肯し難い部分について、今回の視聴で確認できたことをいくつか書きます。

 

 まず、“光のキラキラ”。本作もそうだったのですね。ひょっとすると元祖?ビオランテの移動だか再生だかわかりませんが、あれがビオランテ? それとも「謎の現象の視覚化」? そりゃあ、そんな風に言ってしまえばもう何でも通ってしまう。本作は、一方で、バイオテクノロジー(批判)を主題にし、ゴジラ細胞だ抗核バクテリアだといって「空想科学の文法」を用いながら、他方で“光のキラキラ”や“かぐや姫の昇天?”のような「空想非科学」を織り込む。これをデタラメと言わずして何と言うのか。フィクションのFとファンタジーのFは違うのです。いえ、両者の整合・共存もありえましょうが、それは、「ほー、なるほど、そう来たか。それなら許容もできよう/むしろ必然的だ」と思わせるほどの何かがあって初めて成り立つものでしょう。

 

 次に、台詞の述語省略について。3つ例を挙げると──

 

・抗核バクテリアゴジラには効かないのではという疑問に答えて白神博士(高橋幸治)が

 「そんなはずは…」

ビオランテの最期、“光のキラキラ”となって飛散するのを見て未希(小高恵美)が

 「ビオランテが…」

ゴジラが回れ右をして海へと向かうのを見て桐島(三田村邦彦)が

 「ゴジラが…」

 

とそれぞれつぶやきます。実はこの述語省略、本作に限ったことではなく、ウルトラシリーズ(やおそらく他のゴジラ映画)にも広範に見られます。そしてそれらの台詞の直後には決まって間の悪い間が必ず置かれる。私は聞くたびにイラッと来ます。映画やTVドラマの世界において特撮作品がイロモノと言われる存在に留まるとすれば、一つはこういう変で稚拙なシナリオ手法が理由として挙がるのではないかと。それほど、この特徴は私にとって訝しく残念なものです。私は無知なんですが、仮面ライダーなどではどうなんでしょうか。

 

さて、「場面のカットの見直し」といったそもそも論はここでは控えておくことにすると、ここに挙げた3つの台詞だけを差し替えるとすれば、それぞれ例えば「そんなはずはない…」「ビオランテが光の流砂になって消えていく…」「ゴジラが海に帰っていく…」などとするのが妥当です。もちろん、これらでは直截過ぎてダサいというのなら言葉を練っていけばよく、それこそが脚本家または撮影現場のセンスのはず。確かに、こういう場面(あるいは、怪獣との対峙ではないにせよ何らかそれと類似した現実の大きな場面)に遭遇した人間は、落ち着いて文構造を守って語ることができず、対象となる名詞だけ口にして思わず絶句、ということがしばしばあるのだ、という理屈は十分わかります。しかしそうした切迫感・不可思議感等の描写だとするには今度は直後の“間”がいかにも間抜け過ぎるわけです。何でもかんでも後ろを「…」にすればベタに言うより「含み」が出る、という安直な意識が垣間見え、そんなことでは出したかった本来の「含み」など表現できるはずがありません。それに、何も現実に即すばかりが能ではないでしょう。作品世界はフィクション世界であり、現実ではないのですから。現実に起きそうにない理想を通せばいいという場合がある。──この点を忘れ、ただただ現実との比較による正確性整合性だけをつっこめるだけつっこんで「リアリティーに欠ける」を乱発するだけの作品批評も数多く見かけます。この辺りは以前、山田太一「ありふれた奇跡」の記事でも触れました。──

 

そう考えた上で、一歩譲って何らかのパターン化をするとすれば、言葉の残し方(削り方)が逆なのだと言えます。すなわち述語の方を残すのです。今の3例でいうと、「そんなはずはない」は省きようがないとしても(笑)、「ビオランテが…」ではなく「消えてくわ…」、「ゴジラが…」ではなく「帰るのか、海へ。」などとする方がまだしもよい。これは「言葉遣い自体の座りの良さ」の問題です。言わずもがなに過ぎますが、日本語文においては「文末に来る独立語は必ず述語…*」というのが原則だからです(上の最後の例は「倒置」という変化球ですが、倒置は述語を残すからこそ起こせるのであり、*の原則あってのものです)。ただ、ゴジラやウルトラの製作者たちは、この理由にはおそらく自覚的でありながらそれを転倒させた「ひねった手法」を…。ひょっとして、述語を出して登場人物の発言の意味内容が確定してしまうのをあえて…。「ゴジラが…」として、ゴジラがどうなる/どうするかは鑑賞者の一人一人に…。例えば「帰る」と「行く」ではニュアンスが…。──すみません、くどかったですね(笑)。── しかし、そこを確定することこそが作り手の仕事なのではないでしょうか。ぎりぎり確定していきつつもしきれないもの・が残る/を残すとき、初めてそれを鑑賞者に委ねる、というふうであってこそ、そういうことにも深みが出るのでしょう。

 

少し話が逸れますが上記と類似することを一つ思い出しました。「言葉にできない」「言葉にならない」という歌詞を含むヒット曲がいくつもありますよね。ドキュメンタリーやインタビューなら「答に詰まる」「言葉が出ない」という現象や「ごめんなさい…言葉にならなくって…」などの発言が却って真実に迫る表出となる、ということがむろんありえます。が、言葉自体の非即興的な創作である歌の歌詞の中に「言葉にならない」等の言葉がほいほいと直接綴られては、よほどでないと白けますし、私自身はその「よほど」と思える作品の例に未だ出会っていません。歌詞どころか、まんまタイトルとなっている曲もあるほどですが…。凡人が言葉にできないような感情・情景を某かの言葉にして紡ぐことこそが作詞家の仕事ではないのか、と大きく首を傾げたくなります。反転して言えば、創作者としてたいへん勇気ある手法だとも言えます……。

 

そういえば、さらに、以前クリ拾い(7)にも書いたように、上記2つと反対方向の「司会進行役が最後にやたらと自分のまとめを発信したがる」という現象もしばしば見受けられます。

 

無用な言葉を残し発すべき言葉を削り、言葉を発せずに居直り、かと思うと、真に言葉を控え視聴者鑑賞者の能動性に委ねるべきときにしゃしゃり出る…。上の3つが、「発言発話の転倒」現象としてこのようにつながってくるとは…。ビオランテの最期についてちょこっと書いておきたかっただけのはずが、思わぬリンクを呼び起こしました。