音楽の編み物

シューチョのブログ

化ける“映画化”─4つの『タッチ』をめぐって

クリ拾い(1) 2007年2月

──この記事は、その性質上、当該作品の“ネタばれ”を含みますので、予めご了承下さい。──

 

『タッチ』には現在、あだち充の原作漫画の他に、TV版アニメーション(以下「TV版」)、映画版アニメーション(以下「映画版」)、実写映画版(以下「実写版」)の3つがあります。この3つでは、どれも、原作における最も重要なある場面がなぜかカット(削除)されています。

例えば最近、『ブラックジャック』や『人造人間キカイダー』の“リメイク漫画”が出ているようです。これらはどれも、同じ主人公を立てた「別物」と捉えられようし、原作とどう違っても大いにけっこうで、その作品を新たな「原作」のように捉えてそのまま論じればいい。しかし、ここに挙げた『タッチ』のそれぞれの版は、明らかに原作の漫画をベースにしたテイストとストーリーを持った「アニメ化」「実写化」に過ぎず、まさか「別物」ではありえません。以下、そのことを踏まえて論じたいと思います。

問題としたい場面は二つあります。一つは (1) 明青が決勝点を取る場面。もう一つは (2) 達也の新田への最後の投球の場面。この二つは原作では以下のようになっています。

(1) 4番松平に対して須見工が敬遠策を採ったのを受けて、監督の柏葉が立ち上がってサングラスを外して合図。それに答えて3塁ランナーの達也がホームスチールを決める。

(2) 達也の渾身の投球は初球からすべて新田にファールで打ち返されるも、最後の1球を投げる達也の姿には和也のゴースト?が重ねて描かれ、ついに新田は空振り。

この二つが、決勝戦のストーリー中、最も重要なポイントであることは論を待たないでしょう。

まず (1) では、目の悪い柏葉があえてその瞳を達也に向けて無言のサインとしたこと、それが唐突な以心伝心の描写に陥らず、敬遠のボール球を受けるためにキャッチャーが立ち上がって大きく1塁側へ寄っていることからしてホームスチールという作戦も十分ありうること、ベンチに返った達也に柏葉が「ホームスチールのサインなど決めてなかったはずだが」という台詞…等々、トーナメント形式の高校野球の1試合の中で為され得る人間ドラマとして、見事に“フィクションが生きて”います。

そして (2) はどうでしょうか。これまでの打席の結果や、球威の落ちてきたことなどから考えても、ここで達也が新田を打ち取ることは不可能に近い・ありえないことと言ってよいでしょう。一方、死んだ和也のゴーストというのも、非現実的・非科学的という意味において“ありえないこと”です。「達也が新田に勝つ」という起きそうにないことが起きたのは、「死んだ和也の霊の登場」というありえないことに導かれたためだ、という説明が、ストーリー展開自身の中で為されているのです。あるいは、もちろん、“現実には”投げたのは達也であり決して和也ではない、霊魂の存在はありえない、という立場を採っても、説明は可能です。筆者の立場はむしろこちらです。つまり、和也という弟がいたことを知る、南や他の登場人物や鑑賞者の我々の誰もが、達也の最後の球、新田も空振りするほどの球を目にして、「あぁ、この球は天国の和也が投げたんだ」「カッちゃんがタッちゃんを助けてくれたんだ」「兄弟の力が今、一つになったんだ」とでも(別に細かくはどう言ってもいいんですが、ともかくそんなふうに)思わなければ説明がつかないくらいの大きな力を達也が発揮できたのだということ、そういうことを1コマで“描写”したのがあの投球シーンだったのだ、と説明することもできるのです。コマに死んだ和也が描かれたのを見て即「そんなの現実にはありえないじゃん」と小馬鹿にするような見方こそが、最も本質から逸れた浅はかな見方であるのです。『空想科学読本』を喜ぶ輩と同レベルということです。ともあれ、この(2) も、やはり、『タッチ』というフィクションを自らしめくくりに向かわせるにふさわしい、必然的な展開といえるでしょう。

さて、話を戻すと、(1) をこの通りに描いているのはTV版のみ、(2) をこの通りに描いているのは実写版のみで、映画版(『タッチ3』)に至ってはホームスチールも和也のゴーストもありません。これら(1) (2) のどちらかまたは両方を欠いていて、はたして「須見工─明青戦」と言えるのでしょうか。もはや『タッチ』ではないと言えば言い過ぎでしょうか。「アニメ化」「実写化」に際して、原作のプロットまたは表現におけるこのような根本的な部分を、どうして変更してしまうのでしょう。しかも、その変更がそれぞれの版自身なりの必然性を持つかと言えば甚だ疑問です。単純に、他の多くの取捨選択の対象と同様に捉えられてカットされたとしか思えません。長期連載された原作から内容の取捨選択をするのは(TV版はともかく映画化に際しては)当然の作業でしょうが、だからこそ、吟味された上で必要なシーンが選ばれるのでしょう。上記の(1) (2) はどちらも、「他はどう変えてもここだけはどうしても残さざるをえない」という数少ない箇所のうちの二つであるはずです。これはもう「原作を尊重するか独自性を打ち出すか」などという次元で語れる話ではありません。