音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (44)

 『ゴジラ』、まだ公開前ですが、その特に意匠について、予告や雑誌掲載などから受けた第一印象として今書いてしまっておきます。

あれは、はたしてゴジラでしょうか。「お、今度はいける」と一瞬僕も思いましたが、それはあくまで1998年版があったからで…、数秒後にはもう違和感をおぼえました。特に下アゴの造型。後で気付きましたが、この点は1998年版と共通しているようです。動物としての骨格なり何なりのリアリティーを醸し出そうとしてああなったのかと想像はつきますが、そういう考えだとむしろ、「ゴジラのリアリティー」からは離れる。ゴジラは、トカゲでもワニでもありません。既存の動物に似ていては、もうゴジラではないのではないでしょうか。

特に、間違っても恐竜に似てはいけない。 ──「物語設定ではゴジラサウルスという恐竜の変異である」とかいうこととは別次元の、意匠存在についての話です。── 1998年版が即アウトなのはそこでしょう。今回はさすがに恐竜には似ていないようなので、そこはいいのですが。

ともかく、ゴジラは、過去のゴジラ以外のどんな動物も連想させてはいけない。そして過去のゴジラには何らか似ていなくてはならない。そういう唯一のはずの連動こそが「ゴジラのリアリティー」でしょう。

例えば、初代メカゴジラからは、「メカ」「ゴジラ」としての造型の発展・進化と同時に、どこからどうみても「元はゴジラである」ことが一目でわかるような、そういう秀逸なる「意匠変更の必然性」が見て取れます(注1)。

ゴジラを一目見て、過去のゴジラよりも先にワニを連想させてしまっては、どうにもならない。

以上、わざわざこうして力説するまでもないことだと思うのですが…。どうしてこうなるのでしょうか。現代の技術なら、例えば1954年のゴジラを「本物よりも本物らしく」再現・復元できるはずでしょうに。そうする義務はもちろんないにせよ、せっかく大々的に「ゴジラが復活」するからには、そうすることに匹敵する何かを、その意匠だけから感じさせるようであってほしい。

それとも、僕の方が、例えば「アメリカと日本」の違いという事態をごく軽くにしか見ることができていないのでしょうか。映画における、架空存在の意匠における「翻訳の不可能性」とでもいうべき、層の深い「文化論的」問題なのでしょうか。

もちろん、大事なのは意匠の第一印象よりも本編の内容であることは、言わずもがな。見たら、また書こうと思います。

注1:初代メカゴジラの意匠については、小林晋一郎『形態学的怪獣論』(朝日ソノラマ、1993年)に、本質をみごとに突いた優れた詳述があります。