音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (49) ゴジラ×メカゴジラ

 『ゴジラ×メカゴジラ』を視聴。釈由美子は好演。それだけに,険しい表情の場面ばかりが多いのがやや残念。笑うシーンや素顔的なシーンがもっと欲しかったような気がします。『×メガギラス』での田中美里の設定の踏襲なのでしょうが,過去の同僚の死あるいは自分の過失などを描く必要など,なかったと思うのですが…。何だか重い。主人公の存在感を示すのに,もっと別の方法があるように思います。田中にせよ釈にせよ,いるだけですでに十分魅力的なのであり,そういう配役を得ているのですから,無理にキャラクター設定の上塗りをせず,役者の素の魅力である容姿や声や所作が立っていくだけの台詞と演技が中心となるような演出の方がよいように思います。あるいは,同じ設定であってももう少し明るめ,または「暗さを隠した」キャラクターにならなかったのか。

 

 『vsメカキングギドラ』『vsメカゴジラ』における「乗込操縦」の違和感について書きましたが,『×メカゴジラ』の機龍は遠隔操作(が基本)だったんですね。やはり一視聴者の私がひっかかったような所は作り手の方も当然理解と自覚があり,微修正してきているということでしょう。そういえば,『vsビオランテ』における「述語省略の台詞」についても『vsメカゴジラ』では「帰ってくわ」と述語のみの台詞があったりしました。これも微修正の結果かもしれません。

 

 機龍の意匠は,一見,メカゴジラ3代のうち最も美しく見えるのですが,どこかナヨっとしている。澄ましている。ゴジラという強大な存在と互角に対峙するだけの凄みに欠けるのです。キングギドラは言うに及ばず,モスラにせよヘドラにせよ,その「大きさ(サイズのことだけではない)」と来たら,今の言葉でいえばスピンオフ物で単体で映画になりそうなほどです(モスラは実際,単体映画の方が先でしたね(笑))。この点,初代メカゴジラは,それら大怪獣に引けをとらず,単なる意匠美以外にも,存在自体が,立っているだけで十分ゴジラとの“互角感”が画面いっぱいに広がるわけです。

 

そういう印象は,前回述べたことおよび後述することとも関連しますが,メカゴジラ=機龍が人間の開発した存在であるという点に起因するのではないでしょうか。

 

 さて,「人間ドラマをしっかり」描いたり,「ゴジラの対する怪獣が人間の味方」だったりすると,これもよく指摘されることなのでしょうが,肝心のゴジラの影が薄く,脇役になっている感が強くなってきます。『×メカゴジラ』でいえば,人間同士や人間と機龍の関係の物語になってしまい,かつゴジラの存在がそのダシに使われてしまう。対照的に,ジャンルが異なりはしますが『ウルトラマン』ではそういう違和感は起きていない。それは『ウルトラマン』が,科特隊もウルトラマンも視聴者もみな怪獣の方を向いている,そういう視線・視点の設定が基礎となった「怪獣挿話集」だからです。つまり,こうした『ゴジラ対(vs/×)○○』の設定が孕む「ゴジラパラドックス」を解消するためには,「ゴジラウルトラマンになる」というのが,実はけっきょく自然な解決法であることが改めてわかります。『ウルトラマン』においてウルトラマンの存在は浮くことがない。ゴジラを「対決もの」にするなら,ウルトラマンのポジションにゴジラが来るのが最も妥当なわけです。だから昭和ゴジラはその道で来た。あるいは『ゴジラの逆襲』のアンギラスのように,怪獣同士が単に対峙しているだけでそこに人間が絡んでいない(『逆襲』での2体の格闘って,確かそうですよね)なら違和感はあまりない。つまり,多々良島のレッドキングとチャンドラーですね。「ゴジラは悪役」を踏襲しつつ他の怪獣との「対決もの」に持っていくならば,「ゴジラレッドキング(相手の怪獣=チャンドラーetc)」がよい。なるほど。私の評価が『vsビオランテ』『vsメカゴジラ』よりも『vsスペースゴジラ』『vsデストロイア』『ミレニアム』『×メガギラス』などに対しての方が高いことの理由を今自覚しました。

 

そうか。『ゴジラFINAL WARS』,一般の低評価にも納得しつつも私は何だかけっこう楽しめた,その理由が自分でよくわからなかったのですが,これも今の話と関連しそうです。『FINAL WARS』ではX星人もその配下の怪獣も人類もみな,基本の視線・視点が(ゴジラが出現してからは)ゴジラの方を向いている。その存在感が圧倒的です。ミュータント同士の格闘シーンやX星人とミュータントの対決シーンも,「肝心のゴジラはどこへ行った?」という点が,私としてはまさに低評価ではなく高評価につながるわけです。「レッドキングとチャンドラー」の裏返しで,まさに「こっちはこっちでゴジラと関係なくかってにやってる」感があるからこそ,却って別にそれでかまわないわけです。中途に関連してダシに使われるよりも,ゴジラの存在の尊厳が保たれている(笑)とでも申しましょうか。

 

そしてその「ダシにされてる」感が最も大きいのが『ゴジラ×モスラ×キングギドラ 大怪獣総攻撃』ではないかと。護国聖獣伝記?とか戦死した人々の怨念??とか,ゴジラと元来無関係なものを無理矢理つないで物語に仕立て,その言ってしまえば“ちっちゃい枠組み”の中にゴジラ存在を押し込めてしまっている。あの「白目」もそこからの帰結ですよね。だから見ていて「ゴジラゴジラでない」ように見える。ゴジラが,まるでエメリッヒ版『GODZILLA』のゴジラ(ジラ)や『ジュラシックパーク』のティラノサウルスに近い存在にさえ思えてしまうわけです。護国聖獣のアイデアゴジラ映画とは別に展開した方がより活きるのでは。『FINAL WARS』のゴジラの方がよほどゴジラ然としているではありませんか。ゴジラという存在(必然性)を作品世界内に位置づけるための説明や物語を周到に用意すればするほど,逆に,その説明や物語のためにゴジラという存在が使われる…という転倒が起きてしまう(ことがある)わけです。