音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (9)

 すでに4回の放送を終えた『ULTRASEVEN X』について、ぼちぼち書こうかと。

 『ネクサス』などにも言えることですが、プロットや内容(物語の背後の意味)が周到であればあるほど、台詞の少なさ=密度の小ささが毎回残念です。「ひとりぼっちの宇宙人」で、「超兵器R1号」の前半がほとんど台詞の時間=物語の進行時間であることを書きました。時代が違うから、TV映像作品に求められるものが違うから、なのでしょうか。いずれこれらの問題を包括的に扱いたいと考えています。

 しかし、『ULTRASEVEN X』には、一つ目立った長所があります。実に『帰ってきたウルトラマン』以来失われていた“第1期ウルトラシリーズ的”な特徴が『ULTRASEVEN X』にはあるのです。それはSEVEN Xの戦闘シーン。これまでの4回のうち3回を視聴しましたが、いずれもシンプルで、SEVEN Xがピンチらしいピンチに陥ることなく、技と力の両面においてエイリアンを圧倒していて、あっさり終わります。これこそウルトラセブンです。第1クールで、怪獣や星人をアイスラッガーエメリウム光線一発で仕留め、悠々と飛行して去るセブンのかっこよさを、ちゃんと踏襲している。(少なくとも最初数回のうちは)こうでなくてはなりません。

新マン、エース、タロウ、みんな弱過ぎる。ネクサスに至っては見ていて情けなくなります。「『ネクサス』では、ストーリー全体からして、そこにこそ意味がある」ということは重々承知しています。意味を出し過ぎているとでも言いましょうか。ネクサスのあの屈指の意匠造型、シリーズの到達点と言ってよいあのすばらしいスタイルと、その弱さとのギャップがあまりにも大きくて、がっかりしてしまうのです。もっととんでもなく強く、何のピンチも戦闘らしい戦闘もないまま、サクっとビーストを始末するときが(目立つ形で)あってもいいと思います。それでこそ“光の使者”でしょう。せっかくの“かっこよさ”が「連続物の展開」のために犠牲になっているように見えるのです。

第2期以降、1挿話に1回はウルトラマンがピンチに陥る。「苦難の克服」というテーマをウルトラ(マン)シリーズに託そうとしている。第2期の各最終回にせよ『ティガ』最終3部作にせよ。『メビウス』に至ってはメビウスの存在自体が“成長と克服”の物語のためのヒーローであり、最終回だけでなく全体がそのテーマによりかかっているようなところがあります。いわゆる平成シリーズの脚本家の誰かがどこかで「最後は隊員みんなの笑い声でよかったよかったと終わる」という第1期のシナリオパターンを好まない、と発言していた記憶がありますが、「1挿話に1回ピンチになる」というパターンの方が、ウルトラ(マン)シリーズのシナリオにとって、よほど「克服」されるべきワンパターンではないでしょうか。

その点SEVEN Xは○ですね。しかも、現代のCG技術を駆使してみせることで、第1期では到底成し得なかったスピード感の加わった映像に仕上げられ、超人・宇宙人としてのウルトラマンの発展的回帰となっています。