音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (34)

第 IV 章 ダン=セブンという多面体 (2)

3 標的としてのウルトラセブン

  第39・40話「セブン暗殺計画」(3)

 その代わりに、本挿話では、地球人(の代表であるウルトラ警備隊員やタケナカ参謀)とウルトラセブンとの交流がメインに描かれた。このことは、『ウルトラセブン』においては実はイレギュラーなことだ。確かに、鑑賞者にとっては、特に現役の子どもにとっては、セブンは常に主たる興味対象の一つだろう。また、敵対宇宙人が“セブンの方を向いて”くる話は他にもある。が、本挿話では、登場人物であるウルトラ警備隊および地球防衛軍が“セブンの方を向いて”いる。「(総称としての)ウルトラマンと地球人(の代表としての隊員たち)が団結・協力して悪に立ち向かう」あるいは「ウルトラマンのために隊員たちが一致団結する」というプロットは、実は、第1期シリーズの『ウルトラマン』『ウルトラセブン』においては、少なくとも基本的だとは言えない。そういう筋立てで書かれた挿話もあるにはあるが、あくまで「そういうのもある」という程度の数に過ぎない。『セブン』においてはこの「セブン暗殺計画」がその数少ない例である。これが本挿話(特に後編)の意義といえる。

 マグネリウムエネルギーの合成に成功したウルトラ警備隊は、「みんな!いいな。破滅の道を選ぶのは地球人かガッツか。これがわれわれの最後の作戦だ」というタケナカの言葉に見送られ、ウルトラホーク1号でセブンの浮かぶ空へと向かう。ガッツ円盤と攻撃に遭い、機体を損傷させられつつも、黒煙を上げたまま飛行を何度も立て直して機首をセブンに向けるキリヤマ、セブンのビームランプへマグネリウムエネルギーを何度も命中させるソガ。どちらも、ぎりぎりの難度の技であることが軽妙なカットの演出によってよく伝わる。実はこのときのセブンは幻影だった、という展開となるのではあるが、この空中シーンは、後の、岩壁にもたれかかった本物のセブンのいる現場へマグマライザーで急行してセブンをついに復活させるシーンと合わせ、皆がセブン復活を信じて必死の思いで己の身を投じていることがよく表現されている。隊員みんなが“セブンの方を向いて”いるという、『セブン』としては珍しい画面に、見ているわれわれも引き込まれ、同じように“セブンの方を向いて”しまうのである。すなわち、例えば『ウルトラマンエース』で、竜隊長が「よし、エースを援護するぞ」と毎度のように言うのを聞いて、“どちらを向くでもなくTV画面をただ眺める”、というのとは決定的に異なるような、“熱い”視聴者感情というものが働くのである。

 「第1期においては“ウルトラマンと隊員の団結・協力”・“ウルトラマンのために一致団結する隊員たち”というプロットは少ない」と書いた。『セブン』の場合、普段はそのような「お決まりの展開」に描かなくても、「ダン=セブンの二重性」「SFプロットの秀逸性」などのフィクションの活性化による必然的展開があれば、それだけで面白いものになっていたのである。ところが本挿話では、フィクションの要であるダンが不在であるため、“典型的なストーリー展開”というものが必要となった。そうして生まれたのが上記のシーンである。それは、“豪華”前後編であるはずの本挿話において、“ダンの不在”という欠点を補完する役割を果たしたのである。

 もう一つ。「ダン=セブンの二重性」の4つの側面である「ダンのセブン性」「セブンのダン性」「ダンのダン性」「セブンのセブン性」のうち、「セブンのセブン性」は、通常、セブンの登場シーン自体にごく当然に表出されるに過ぎない、最も内容的に薄い側面といえる。が、ここではこのように、「セブンのために一致団結する隊員たち」を描くことで、特にこの側面に光が当たり、内容的意味を伴って表出されたといえる。しかもこの空中シーンは、最終挿話「史上最大の侵略 後編」の類似シーンとパラレルである。でありながら、両シーンは、二重性の表出においては決定的に相違している。詳しくは最終挿話の項に譲るが、こういった対比も、『ウルトラセブン』の作品世界鑑賞の醍醐味なのである。