音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(10) I.2-2

第I章 ダンとセブンの二重性

2 ダンとセブンの異質性

2─2 本郷猛>仮面ライダー  

 ~変身の二義性とヒーローのアイデンティティー、再論~

  モロボシダンの悲しみ 

 では本郷猛の悲しみとモロボシダンの悲しみはどのように違うのか。まず、ダン=セブンにとって自分の超能力は天分であり、そこから屈折した劣等感など生まれようはずがない。もとより、セブン自身にとって自分の能力はM78星雲人として当たり前の知力・体力であり、人類がいわば勝手にそれを超能力とみなすのである。次に、ダン=セブンの敵対相手は多種多様に渡り、善なのか悪なのかさえ不明な場合も多い。まして特定の組織に集約されようはずもない。少し話が逸れるが、『仮面ライダー』の影響を受け、光線技にも派手なアクションを取り入れたりした『ウルトラマンエース』について言えば、やはり『ライダー』の影響からだろうが、悪の親玉・異次元人ヤプールの存在が導入されてしまった点に、やはり疑問を感じざるを得ない。放映当時、筆者は子どもながらに、ウルトラシリーズにはいかにも不似合いなこの設定を著しい違和感を持って受け止めたことを鮮明に憶えている。『ウルトラマンレオ』における、円盤生物群率いるブラック将軍も同様だ。

 さて、『仮面ライダー』においては、ヒーローが超能力を行使すること自体の是非 は決して問われることはない。一方、『ウルトラセブン』においては、まさにこの問いこそが作品世界のアイデンティティーの一部なのである。作品世界の根底における、この消し難い大きな相違が、そのまま「本郷猛の悲しみ」と「モロボシダンの悲しみ」の本質的相違となって表れるのである。ダンの悲しみは、本郷のような、自らの劣等感と正当性との間で個人的に揺らいでいられるような悲しみとは全く次元が異なる。先に見たように、彼にとって自己の超能力は本郷>ライダーの場合と違って単に自分の地球人に対する優越性を示すものでしかない。同時に、自らの超能力を行使することの正当性という点も、これまた本郷>ライダーの場合とは違い、単純に保証されることは決してないのだ。ダン=セブンは、その二重性により、二つの悲しみを背負う。

 誰からも正当性の保証を得られない、しかし誰よりも優れた、そのような超能力を持つことによる、地球上での自己の存在の決定的矛盾-必然的破綻。これが ウルトラセブンの悲しみ である。

 加えて、自己の超能力の否定的価値の可能性を真に理解し得る者が、地球上ではまさに自分自身以外に存在し得ないという、地球上における絶対的孤独=地球人との断絶。これが モロボシダンの悲しみ である。

 ダン=セブンの良心は、その超能力保持の優越性から、優越感にではなく罪悪感へと自らを向かわせる。すなわち自分の超能力を行使したときは「するべきではなかった」、行使しなかったときは「するべきだった」という、葛藤と後悔の念に苛まれることになる。そして実際にも、彼は「するべきだった」ときに行使せず、「するべきではなかった」ときに行使する、という行動を選択してしまう。特に彼の中のモロボシダンが、そのような判断・選択をしてしまうのだ。なぜそうなるのかといえば、その根拠こそ ダンとセブンの異質性 に他ならない。地球人をモデルとするダンとしての判断や行動は、コスモポリタンの超人セブンの判断や行動と相容れない、という事態がしばしば起こり、そういうときにダン=セブンは結局、ダンとしての判断や行動すなわち地球人としての利己主義の方に偏った選択をしてしまうのであった。ここのところが『セブン』の作品世界の深みとなるのである。つまり、ダン=セブンの本来の姿/人格はセブンの方であるはずが、仮の姿であるダンの人格が確かに同時に異質的に存在し続け、自らの中でそちらの方が優先されるという反転が起こっているのである。

 『セブン』鑑賞者の我々にとって、ダン=セブンの魅力とは、一方で、その同一性・唯一性に由来するキャラクターアイデンティティーの確認のしやすさによるのであり、それはハヤタ-ウルトラマンなどの別人型からは得られないものであった。しかし、彼の魅力とは他方で、以上に見てきたように、自らの中にダン≠セブンという異質性を内包し、それがために苦悩する割り切れない存在であるというキャラクターの奥深さにもよるのであった。そのようなキャラクターを主人公として据える『ウルトラセブン』の物語は、それゆえに単純な「勧善懲悪もの」では決してあり得ない。

 ただ、ここで確認しておくが、作品世界が単純な勧善懲悪でないことは何も『ウルトラセブン』に限ったことではない。巨大ヒーローのいない『ウルトラQ』はもとより、『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』、そして『ウルトラマンティガ』以降のシリーズも、全挿話を総合的に見渡せば、これらが勧善懲悪単純お気楽無思考ストーリーであるというのは大きな誤解であることがわかる。このことは既に多く述べられてもおり、ウルトラマンを単なる正義の味方の代名詞のように捉えるような短絡はおそらく減ってきてはいるのであろうが、本稿でも改めてはっきりさせておきたい。確かに、挿話毎の各論や格闘シーンだけに目をやると、『水戸黄門』と大差ないように見えるだろう。だが、詳しくは第 II 章以降に譲るが、例えば同じく作品中の必須アイテムでありながら、助さんのかざす印籠と、ダンのかざすウルトラアイやセブンの投げるアイスラッガーとの、モノとしての存在の意味/深みの何という違い。「別種のエンターテインメントを比較しても無意味」という意見は当然出てこようが、しかし、概して娯楽的作品というのは、大人が喜んで見る作品の方が単純お気楽無思考で、子ども向け作品の方が何かと深みがある、ということはここでやはり指摘しておきたい。新書判の膨大な大人向け《ハウツー書》などよりも「子ども向け」の絵本の方がよほど深い、という現象とパラレルであるといえよう。

 以上、第I章では、ダン=セブンの同一性、ウルトラマンをはじめとする別人型と同一型セブンとの相違、ダンとセブンの異質性、そして多くの等身大包含型悲劇的ヒーロー達の代表・本郷>ライダーとダン=セブンとの相違について触れてきた。同一性と異質性を同時に内抱するダン=セブンの二重性。第 II 章以降では、この二重性を軸に、『ウルトラセブン』の各挿話に言及しつつ、「ダン存在論」を展開していくことになる。