音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(9) I.2-2

第I章 ダンとセブンの二重性

2 ダンとセブンの異質性

2─2 本郷猛>仮面ライダー  

 ~変身の二義性とヒーローのアイデンティティー、再論~

  包含型ヒーローにおける「変身論」 

 仮面ライダーは、ウルトラマンとともにTVヒーローの代名詞的存在である。かたや身長40メートルの巨人、かたや等身大のアクションヒーロー、この巨人と等身大との違いこそがウルトラヒーローたちとライダーたちの決定的相違点である。両者の相違はすべてここから始まる。しかし本書では巨人ヒーロー論・等身大ヒーロー論にはあまり立ち入らず、「変身論」に絞って述べたい。

 改造人間・本郷猛の変身した姿が仮面ライダーである。そしてその変身というのも、超能力を装備装着した、という意味合いが強い。あるいは、そもそも本郷は改造人間で超能力を持っており、それをフルに発揮するためにライダーの姿になる、という言い方もできる。つまり、ライダーになっても「中身」は本郷猛なのだ。言い換えると、仮面ライダーは《超能力モードの本郷猛》に過ぎない。変身の前後でそのアイデンティティーは変わらず、本郷自身の中に既に「ライダーである部分」が含まれており、「本郷>ライダー」の図式がなりたつ。このような場合を包含型と呼ぼう。包含型とはつまり、変身前の人間の姿における人格が基本的にはそのまま変身後にも現れるということである。

 古今の等身大ヒーローはほとんどすべてがこの包含型である。月光仮面人造人間キカイダーレインボーマン、ゴレンジャー等の「戦隊もの」、キューティーハニーライオン丸宇宙刑事シリーズ、セーラームーン等々、すべて包含型だ。「変身」をより広義に採ればタイガーマスクも含めてよいだろう。これに対して、巨大ヒーローには包含型はあまり見かけない。等身大ヒーローが圧倒的に多く包含型なのは、やはり等身大への変身では「変身して姿は変わっても中身は変わらない」という印象が根底にあるからであろう。巨大化してしまうと、変身前との親和度が薄れるイメージがある。

 特殊な例としては超人バロム1が挙げられる。バロム1は二人の少年タケシとオサムの合体であるが、やはり通常は彼らとバロム1とは別人格と捉えた方が自然だろう。ただ、時折バロム1になってからタケシとオサムがバロム1の心の中で会話したり意見を食い違わせたりする場面も出てくる。こういう曖昧さが出てくるところもウルトラマン同様別人型の特徴といってよい。

  本郷猛の悲しみ 

 さて、本郷猛の悲しみとは何か。それは自分の仮面ライダーである部分そのもの、改造人間であることそれ自体である。「ショッカーによって改造人間にされてしまった」ゆえに、心身ともに深い傷を負う一方で超能力を持つヒーローになった。このように、本郷猛の悲しみとは彼自身の個人的な悲しみである。「特異な身体を持つ」「自分は普通の人間ではない」ということが一つのトラウマとなり、彼自身の内面において優越感ではなく劣等感を形成し、それが悲しみの源となっている。ヒーローとしての外的な強さとは反対に、彼は内面的、心理的には弱い存在だといえる。本郷>ライダーは、自分の存在の異常性を悲しむが、その異常性=超能力を行使したときにこそ、まさに彼は報われ讃えられもする。そしてそれゆえにまたそのことが葛藤となっていくのである。

 しかし、『仮面ライダー』において、ショッカーは絶対的に悪であり、しかもライダーの超能力抜きには立ち向かえない相手である。また、ショッカーとは悪の統合組織であり、ライダーと敵対する唯一の存在である。ライダーにとって敵対する悪とはショッカーであり、ショッカーこそ敵対する悪のすべてである。こうした、ショッカーにおける「悪の一意性かつ絶対性」が、ライダーの超能力行使の正当性を保証することになる。すなわち、この「悪の一意性かつ絶対性」によって、本郷>ライダーは、自己の内面にとってトラウマであるはずの自分の超能力を行使することに自ら納得でき、鑑賞者の我々は、心理的弱者である本郷>ライダーに同情し、彼を応援し、彼の行動を養護する立場を安心して採ることができるのだ。

 ここに、「悪に授かった力によって悪を打つ正義」という屈折した勧善懲悪の図式が完成する。異常性=超能力の存在それ自体の否定的側面と、それを行使することの正当性という肯定的側面。「改造人間」という異常性=超能力がもたらしたこの《価値の両面性》によって、本郷>ライダーの存在のバランスは絶妙に保たれるのである。