音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (37)

第 III 章 短編SFとしての『ウルトラセブン

 

   第43話「第四惑星の悪夢」(2)

 ──地球のパラレルワールドとしての第四惑星。そこはロボットが人間を支配する恐るべき世界だった。機械文明に手を初めた人間がすべてを機械に委ねるうち、人間はすっかり怠惰になり、やがてその機械=ロボットに逆に支配されてしまったのだ。──本挿話紹介のリード文はたいていこんなところだろう。

ダンとソガが第四惑星のロボット長官と対峙するシーンには、『ウルトラQ』的なSFホラー性がみごとに発揮されている。

ロボット長官は、床も壁も真っ白な細長い廊下のような部屋に座り、自分の顔を「開けて」眼球をむき出しにしながら、頭の後ろを「開けて」油を注しながら、ダンとソガに向かって説明するのだ。

───

この惑星も昔は人間が支配していたのだ。わしの記憶装置によると、えーっと、あれは2000年も前のことだ。人間は我々ロボットを生み出してからというもの、すっかり怠け者になってしまって、つまりやることがなくなったわけさ。そのうち、ロボットにとって代わられたというわけだ。

───

わずか1分弱の時間を埋める、衝撃的な合成映像と詳し過ぎない軽口の説明。「ロボットが人間を支配する」というフレーズから一般的にイメージされる恐怖が、みごとに映像化されている。この「ロボット」を「猿」に置き換えると、映画『猿の惑星』になる。そこでは「猿が人間を支配する恐ろしい世界」が描かれたのであった。

しかし、第四惑星が恐ろしいことの理由は「ロボットに」支配されるからというだけなのだろうか。むしろ、そこでのロボットと人間の間の支配─被支配の関係そのものにこそ恐ろしさがあるのでないか。

いいロボットがいい政治をしてくれるなら問題はないとも言える。「善し悪しによらずロボットに支配されること自体ごめんだ」というテーマももちろん成り立つが、それこそ本挿話とは無関係であろう。

第四惑星では、「実際に」悪いロボットが悪い政治を行っているのであり、その「悪い奴らによる悪政」こそが問題なのであって、その「奴ら」の属性が人間かロボットかということが第一義ではない。力を持つ者すなわち腕力も権力も併せ持つ者がそれらを持たぬ多くの者を踏みにじっていく、そのような支配被支配関係の恐怖について、例えば人類の史実・関係をもとにしたフィクションを描くのではなく、ロボットと人間という架空の関係に託して描いてみせたのが、本挿話なのではないか。

「第四惑星の悪夢」や『猿の惑星』において、支配者が「ロボット」や「猿」であることの戦慄性およびそれゆえのエンターテインメント性だけに注意が向きがちである。おそらくは作り手自身の意識・意図もそこに集中している。しかし、それら(「ロボット」「猿」という属性)は物語の構造としてはあくまでも隠れ蓑・隠喩・モデルのはずである。本当に恐ろしいのは、そこで描かれた支配被支配関係そのもの、すなわち、人間の現実世界の過去の事実と未来の可能性であることを、ここでは今一度確認しておきたい。