音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (23)

第 II 章 ダン=セブンという多面体

5 悲劇の宇宙人/宇宙怪獣

  第6話「ダーク・ゾーン」(2)

 ウルトラホーク1号が出動するも、搭載の爆弾ではペガッサ市を破壊できないと分かり、新爆弾を載せて後から出た爆撃艇に爆破をまかせることになった。代わりに、ホーク1号に乗り組んだウルトラ警備隊には「ペガッサ市に危険を通告し市民の脱出を援助、安全に地球まで誘導」(前掲DVD)するという任務が与えられる。自分の出発前の進言が受け入れられたダンは大喜びして、ペガッサへの呼びかけ役を買って出るが、ペガッサからの応答はない。

───

ソガ「なぜ応答しないんだろう。…そうだ、われわれを疑っているんだ」

フルハシ「それなら、このホーク1号を攻撃してくるはずだ」

ソガ「自分の軌道も変えられないような地球人が、ペガッサを破壊できるはずがないと思っているかもしれない」

───(前掲DVD)

ホーク1号の避難可能時刻が迫り、キリヤマは説得を諦めることを決断。

───

キリヤマ「残念だが、地球が生き残るためには、こうするより…」

───(前掲DVD)

 ペガッサが爆破され宇宙の藻屑と消えた後、場面はアンヌの部屋に切り替わる。

───

ペガッサ星人「アンヌさん、誰もいませんね……、地球はもうおしまいだ!おまえはすぐ地球から逃げるんだ。ダンも連れて行け」

アンヌ「どうしたの」

ペガッサ星人「私は今から地球を爆破する。悲しいことだが、これが私の任務なのだ。万一、地球が軌道を変えなかったとき、私は地球を破壊する目的でやって来た」

アンヌ「あなたは……ペガッサの人なのね」

ペガッサ星人「そうだ。事故を起こしたため、ペガッサ市との連絡はとれないが、私は愛するペガッサを守るために地球を破壊しなければならない。悲しいことだ。しかし私は、地球を爆破する」

───(前掲DVD)

アンヌの目の前でダーク・ゾーンを解いて姿を現したペガッサ星人は防衛軍基地を飛び出し、テレキネシスで爆弾を誘導し地球の中へ落とす。そこへダンが現れ、ペガッサ市を破壊したことを告げるが、ペガッサ星人は、地球人の科学力を見くびり、信用しない。そこからの彼らのやりとりが重要である。

───

「地球が無事なのは、ペガッサが破壊された何よりの証拠じゃないか。」

「私たちの計算では、地球がペガッサと衝突するまで、まだ十分時間がある。」

「僕は見たんだ。ペガッサの最期を。」

「何ということをするんだ!ペガッサは、宇宙が生んだ最高の科学なんだ。私はとっくに地球を破壊する準備を終わっていた。アンヌの部屋からでもこの爆弾を地球の中心にぶち込むことができたんだ。それをしなかったのは、最後の最後まで、私たちの科学の力が、この事態を何とかしようと…、復讐してやる!」

───(若槻 DVD[99b:6])

 セブンに変身するダン。ペガッサ星人は短銃で攻撃するが、セブンに通用するはずもなく、アイスラッガーを受けて傷ついた腕を押さえ、振り返って夜の闇に走り去り、見えなくなる。セブンはそれを追わず、穴へ入って爆弾を持ち出し、宇宙でそれを爆破させる。

「地球が生き残るために」説得を諦めるキリヤマと「愛するペガッサを守るために」地球に時限爆弾を仕込むペガッサ星人。人類とペガッサのこのパラレルな言動と行動は、やむを得ない利害の対立・両立して存在しえない生命体同士の究極の選択・避けられない「衝突」と見るべきだろうか。それとも──

 ここで、ある仮説について検討しなければならない。それは、「ペガッサ市自身がほんとうは衝突を回避できた。それなのに、人類による市の爆破によって、それが叶えられなかった」というものである。そう仮定しても辻褄は合うのだ。以下はそのような仮説を踏まえた物語プロットの一例である。

───

 実はペガッサ市では、地球との衝突回避策として、「着実に地球を爆破する」か、「新技術のペガッサ・パワーで地球の軌道変更を試みる」か、その選択についてぎりぎりまで議論が続いた。地球の爆破を選ぶ方がペガッサにとっては安全で無難なことは明らかだったが、やはり目前の哀れな地球人を生かしてやりたい、双方が生き残れる可能性があるならそちらを目指すべき、という意見が上回り、ペガッサ・パワーを用いる方法が採択された。宇宙一の科学力を誇るペガッサは、自身の科学力にもう一度賭けることに決めたのである。そして、あとはそれを決行するのみ、という所にさしかかっていた。ところが、地球へ来たペガッサ星人は市との通信が途絶えたためそのことを知り得ず、当初の計画通り爆弾を地球へ誘導する。ただし、周到なペガッサは、もちろんこういった場合を見越し、その起爆装置を遠隔操作で無効にできるように予め用意していたであろう。ではなぜ人類の呼びかけに応答しなかったのか。それは、何より当の回避策の決行の準備に追われていたのと、貧しい科学力のくせに「ペガッサ市を爆破」などとできそうもない送信をしてくる連中を本気で相手にしなかったからだったのではないか。ペガッサが人類を相手にするときの感覚は、我々人類が言葉の通じない動物たちの生命を科学と能力の限り“保護”しようとするのに似たような感覚だったのではないか。この、人類の科学に対する過小評価がペガッサにとって命取りとなった。結果、地球に埋められた爆弾の起爆装置を無効にするよりも前の段階で、ペガッサ市は爆破されてしまった。そのため、セブンが爆弾を宇宙に捨てたとき、それが爆発したのである。

───

 人類とペガッサ。その科学力の圧倒的な差、そして知性と良心の大きさの差。どちらを採ってもペガッサの優位は明らかである。優秀とは「やさしくひいでる」と書く。地球を爆破するにあたって、ダンと逃げるようにアンヌに告げた、やさしいペガッサ星人。ペガッサ星人が、地球の爆破について、人類によるペガッサ市の爆破よりも遅れをとってしまったのはなぜか。それは(上記プロットの成否に拘らず)、彼(とその仲間)が、その知性と科学力で、ぎりぎりの時刻まで、何とかして衝突回避の方法を模索したからこそである。そしてさらに、その「ぎりぎりの時刻」=「地球とペガッサ市の衝突時刻」を、人類よりはるかに精密に割り出せていたからこそである。

 「最後の最後まで、私たちの科学の力が、この事態を何とかしようと…」──ペガッサ星人は、絞り出すような声でそう訴えた。すでに見たように、人類とペガッサの科学力の差は、狭義の能力差(例えば爆破力の差)と、あることをより短時間に実行できるスピードの差(準備と到達の合計時間の差)の両方に現れる。「人類の時間」と「ペガッサの時間」は違うのだ。

 ラストシーン。ペガッサの事件から数日後だろうか、夜、ダンとアンヌが、パトロールだろうか、ポインターに乗り込む。アンヌが、コンクリートに映る影を指さして言う。

───

アンヌ「あたしね、あれから暗闇を見ると、ペガッサの人があたしたち人間を怖がって、その中に小さくなっているような気がしてしょうがないの」

ダン「僕もだ」

アンヌ「ダンも?そう!」

ダン「もういっぺん、あいつに会いたいなあ」

アンヌ「ええ。どこ行ったのかしら」

ダン「帰るところがなくなって、地球の上を走り回っているのかもしれないぞ。夜の暗闇といっしょに…」

───(前掲DVD)

 既に述べたように、「狙われた街」のラストのナレーションは落語のオチそのものであった。実は、上記の最後のダンの「夜の暗闇といっしょに」の台詞回しも、直前のアンヌとの会話から一呼吸置いて発せられ、声のトーンも変えられていて、明らかに落語のオチをなぞった演出であることが見てとれる。こういうちょっとしたしゃれのセンス、深刻ぶり過ぎない自己相対化の視点といったものを内包しているのも、ウルトラシリーズの特徴ではある。『ウルトラマン』における「空の贈り物」「怪獣墓場」などは、そうした特徴を逆にメインに押し出した“イレギュラー挿話”の代表格であろう。しかし、この「ダーク・ゾーン」にこのラストというのは、「狙われた街」の場合ほどには内容と演出とがみごとに呼応しているとはいえず、違和感は否めない。これを、「ダーク・ゾーン」は挿話の制作順としては3番め、「狙われた街」は10番めであり、後者の方がより熟れた脚本・演出に仕上がった、と説明することもできる。

 「ペガッサの人があたしたち人間を怖がって」というアンヌの台詞は、ダーク・ゾーンの主であるペガッサ星人が最初にアンヌの部屋に現れたときの様子をわれわれに改めて想起させる。彼はなぜああも「怖がって」いたのか。彼は、我々が猿の群れを怖がるように、我々人類を怖がっていたのではないか。我々人間が野性の存在に対して恐怖と憐れみとをともに抱くような心持ちでいたのではないか。ペガッサは、ペガッサ市からの脱出を促すダンの呼びかけに応答しなかった。彼らは、人類の幼稚な科学力を軽蔑しつつも、ペガッサ市から一歩外に出れば腕力では自分たちの方が人類に脅かされると考えていたのかもしれない。

 アンヌの部屋でペガッサ星人は、水も空気も工場で作るペガッサの科学について説明するが、同時に、ペガッサ自身がその“科学依存”の脆弱さをよく知っていることもほのめかしていた。

───

「[……]工場が止まれば、数時間以内に全市民は窒息死だ。我々の都市は自然の力を一つも受けていないんだ。科学が進むということは不便なもんだ。君たちも気をつけるといい。石斧で獣を追いかけ回した大昔の生活に憧れる日が来る」

───(前掲DVD)

 ペガッサ星人の物語には、

生存が両立しない者たち同士の対立の問題

と、

文明・知性と野蛮・野性の関係への再考

という2つのテーマの提示が、あるいはさらにそれらの統合までもが、欲張りにも盛り込まれていたのであった。

 さて、先述のくつろいだラストシーンは、ダン=セブン自身の活躍によって地球が爆破を逃れ救われたことの表現でもある。しかしここでのウルトラセブンも、「宇宙囚人303」ほどではないにせよ、「活躍」というにはあまりに地味な“ちょい役”に過ぎない。確かに、惑星と宇宙空間都市の衝突─どちらかの爆破という危機は、さすがにウルトラセブンの手にも余りそうな大きなスケールの出来事だったとは言える。それにしても、ホーク1号の機内から「ペガッサ市、応答願います!」(前掲DVD)と空しく叫び続ける以外に、ダン=セブンにできることはなかったのであろうか。ペガッサは「宇宙人同士」であるセブンの言うことなら信用したかもしれない。ペガッサの脱出を誘導する仕事はまさにセブンにこそふさわしかったのに。任務の中止・避難を決断したキリヤマに向かって「隊長!…」(前掲DVD)と顔をくしゃくしゃにして泣きつくダン。悔し涙の奥で彼は考えたに違いない。地球の平和、ひいては宇宙の平和のためには、やはり何としても自分が本来の自分=セブンになって出て行かなければならない、と。その決意が実ったのが「闇に光る目」のエピソードである。

 ダン=セブンの地球(人)との関わりは、挿話が進むに連れ、こうして深化していくのである。ペガッサ・ペガッサ星人は、ダン=セブンがスーパーヴァイザーからネゴシエイターへと向かう過渡期に現れた、悲劇の宇宙人であった。