音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (27)

第 III 章 短篇SFとしての『ウルトラセブン

  第45話「円盤が来た」

 前半のあらすじはこうである。──町工場で働くフクシン君は、毎日、望遠鏡で星を見ることが楽しみの孤独な青年だった。ある夜、フクシン君は望遠鏡に白く光る円盤群を確認し、ウルトラ警備隊へ通報する。他にも複数のアマチュア天文家から連絡がある。これが実はペロリンガ星人の円盤群なのだが、地球防衛軍観測班はこれを観測/発見できない。ダンは東京天文台、ソガは東京大学天体観測所に問い合わせるが、同様の結果であった。「昨日今日とアマチュアからの知らせがやけに多い。しかし天文台その他の観測所では何の異変も認めてない。これはどういう現象だろう」(川崎、上原、DVD[99k:45])とアマギに疑問を投げかけるソガ。すかさずフルハシが「馬鹿げてるよ!こんなでたらめな通報をいちいちウルトラ警備隊が真に受けて、パトロールに出動するなんてのは」(前掲DVD)と横槍を入れて返す。──科学の権威である大きな組織の設備で見抜けないものを、自宅のアパートから筒型の望遠鏡で空を覗くアマチュアの天文愛好家が見抜く、というのは、いかに何でも無理な筋書きというほかはない。池田憲章の指摘する通り(池田、岸川[79]112頁)、本挿話は「狙われた街」と同じく、SFというよりは寓話の部類なのである。

 近所の少年に化けていたペロリンガ星人はフクシン君の前で正体を現し、説明を始める。フクシン君の見たものは、ペガッサ星雲第68番ペロリンガ星から地球を征服するために送り込んだ円盤群だという。彼はやはり正しかったのである。

───

ウルトラ警備隊天文台が信用しなかったのも無理はない。私たちは、円盤を星にカモフラージュしたんだからね。君のすばらしい直観で円盤と見えたものも、専門家には星としか見えない。これで専門家を油断させるのが私たちの狙いさ。

つまり、ウルトラ警備隊や、ウルトラセブンをね。

───(前掲DVD)

 ペロリンガ星人は、地球の「オオカミ少年」の童話を知っていると言って今度の騒動をそれに喩え、フクシン君に防衛軍へ電話をかけさせ、今宇宙人の自分といると言っても、もう誰も信じないし本部に取り次ぎさえしないことを確認させる。

 ペロリンガ星人の「狙い」について蛇足ながら重ねて説明しておく。「円盤群を、気づかれないように星にカモフラージュする」こと自体が狙いなのではない。それだけでは「油断させる」ことはできず、地球人の監視の眼は緩まないから、やがてカモフラージュに気づかれる恐れもある。「アマチュアの方がカモフラージュを見破って通報する」というプロセスを一度経ることで初めて、専門家たちにそれは《見間違いだ》と判断させ、《オオカミ少年》に対する心理を利用でき、彼らを油断に導けるというわけだ。

 さて、フクシン君がペロリンガ星人に「星への誘い」を受けているその頃、防衛軍基地内の暗室で、アンヌは(おそらくフクシン君の)フィルムを引き延ばして現像した写真をダンとソガに見せて言う。

───

「いいこと?星が一瞬の露光で写るわけがないとしたら、これは何だと思う?これは星じゃないのよ。星に見せかけた円盤群なのよ、やっぱり。異常発光物体だからアマチュアのカメラにも写ったってわけ。」

───(前掲DVD)

 写真に写ったものが円盤群であることを見抜いたのが他ならぬアンヌであることは象徴的だ。ウルトラ警備隊の《紅一点》であるアンヌの存在は、ここでは、《男》的組織の中での《女・子ども》の代表として機能している。この男性─女性の対比・対立は、専門家─アマチュアの対比・対立と呼応する。アンヌは、専門家集団の輪の中にいながらも、最も《アマチュアの直観》に近い立場を採りえるのであった。《男》のフルハシは《権威に拠る者》であり、フクシン君らを小馬鹿にする。ペロリンガ星人は、先述のフクシン君とのシーンでこうも言っている。

───

専門家は常に、アマチュアより正しいと思ってるのさ。

───(前掲DVD)

本挿話に込められたメッセージの一つが「専門家の見立てよりもアマチュアの直観の方が正しいこともある」「権威に頼らず自分の《曇りの無い眼》を持とう/信じよう」といったことであるのは明白である。とすれば、地球防衛軍の権威に対する、内部からのアンチテーゼの担い手としては、紅一点のアンヌこそが適役だったといえる(→注1)。二人の男性隊員を前にしてキッパリとした声と口調で自分の考えた判断を述べるアンヌ。「緑の恐怖」においてメディカルセンター勤務医としての専門性を発揮した彼女が、今度は、いわば当該の問題に対する“非専門性”を発揮し、権威を鵜呑みにしない、しかしただの反発でもない冷静で科学的な視点と思考によって、円盤群を見破ったのである。あなどれないアンヌ。あっぱれアンヌ。

 また、「狙われた街」と並び通じる実相寺昭雄監督の演出がここでも冴え、円盤群/ペロリンガ星人とウルトラホーク1号/セブンとの闘いは、「狙われた街」以上に簡略化された映像・音声効果で処理される。このテンポの良い演出によって、本挿話の寓話性が見事に補完されるのである。

 『ウルトラマン』『ウルトラセブン』における実相寺作品には、下町、土管、サイレンの音、工場の稼働音、ラジオの野球中継、顔のアップ…等々の共通項が表れる。それらは映像に独特のリアリズムをもたらしつつ、同時に、そのすべてが夢の中であるかのような謎めいた空想的な世界を構築する。

 ただ、そのような実相寺作品の魅力は、『ウルトラセブン』においては、やはり“イレギュラーとしての魅力”であることを断っておく必要があろう。「狙われた街」も「円盤が来た」も、『セブン』の挿話群の中では異色であり、だからこそ価値がある。「実相寺監督の回はおもしろい」と、通を気取ってそこだけが取りざたされると、『セブン』全体の本質からは外れていくのである。例えば、『セブン』のベスト挿話をいくつか挙げるとすれば、実相寺作品は「単品」として優れているためにその上位に入って来ざるを得ないだろう。しかし、『ウルトラセブン』という作品全体にとってみれば、他に大事な挿話がいくつもある。もとより、セブンの登場シーンが、毎回毎回、対メトロンや対ペロリンガのときのような映像処理で繰り広げられては、もはや『セブン』でも「ウルトラシリーズ」でもなくなろうというものだ。

注1:そもそもこのようなステレオタイプな暗喩=ジェンダーバイアス自体が、現在のジェンダー論から見ればまさに問題を孕んでいることこそ、わざわざ指摘するまでもない。「女性の視点を活かす」というときのその女性観こそが、無意識に「女性=サブ」と規定しているのであり、もちろん手放しで肯定できるものではない。その点は十分理解した上でなお、当時の(男の)子ども向けヒーロー番組として、このような暗喩が声高でなくさらりと、しかし周到に折り込まれていること自体はやはり小さな驚きとともに受け止めてよいことだろう。本挿話のストーリーにおいて、正しい判断をするアンヌやフクシン君がプラスの価値を有し、フルハシの“男の代表”的台詞がマイナスの価値を有することは確かなのだから。