音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (35)

第 IV 章 ダン=セブンという多面体 (2)

2 人間としてのモロボシダン

 

   第38話「勇気ある戦い」

 『ウルトラセブン』全編中、最も異色の挿話といってよい。また、そのストーリー展開は、残念ながらお世辞にもうまく行っているとは言い難いが、今はそのことには言及せずにおく。ともかく本挿話では、「ダンのダン性」と「ダンのセブン性」とが、まったく独自の表れ方で表れ出る。まずは、難病の手術を受けるのを怖がるオサムという少年をダンが諭すときの台詞を見てみよう。

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 オサムくん、ウルトラ警備隊のことは知ってるかい。われわれは、地球を脅かす宇宙人と戦っている。オサムくん、ウルトラ警備隊が、どうしてあんなすばらしい戦いができるか、わかるかい。それはねえ、われわれのすべてが、人間の作った科学の力を信じているからだ。小さなネジ一つ、メーター一つにも、人間の造った最高の科学が活かされている。そう信じているからこそ、ウルトラ警備隊はあんなに勇敢に戦えるんだ。わかるね。信じるんだ、オサムくんも。人間の科学は、人間を幸せにするためにあるんだと。いいね、わかってくれるね。

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これはもちろん、医学も広く科学として捉えた上で、「われわれ」ウルトラ警備隊が科学を信じるように、君も医者の先生の手術の成功を信じなさい、その勇気を持ちなさい、と言いたいのであろう。ダン=セブンが「われわれ」を主語にして「人間の」科学を最高と讃えている。ここにはまず素直に「ダンのダン性」が表出されている。ダン=セブンはダンの姿のとき、このように人間の一人として語り得るのである。が、同時にこれを「ダンのセブン性」の表出と見て取ることもできる。本当は宇宙人であるダンが、人間の科学の力の貴さ・価値について理解している、そのことの表明である、というわけだ。

そして、ダンは、バンダ星人のロボット・クレージーゴンの攻撃による瓦礫をもろに受け負傷するが、その体を押して、治療を勧める周囲を振り切り、手術直前のオサムを訪ねる。ダンの声かけに「ダン…」と応えるオサム。すでに麻酔で朦朧としているオサムだったが、このときダンが来たことには気づいていたとみるべきであろう。病室を出たダンはオサムの姉にも「手当を受けて下さい」と言われるが、

「いや、僕の傷のために来たと、オサムくんに思われたくないんです」

と拒む。? オサムは今麻酔で眠っている状態なのだ。オサムはダンが怪我をしていることなど知る由もなかろう。あるいは別の言い方をすれば、彼自身が手術を受け、まさに自分の生命の危機と闘っているのであり、他人の手当に気を向ける余裕はないはずだ。そもそも、『闇に光る目』で人類とアンノンを調停し『超兵器R1号』で苦悩したダン=セブンが、このような意味の薄い精神論の言葉を吐くこと自体がおかしい。それはあまりに「人間的」に過ぎる。ダン=セブンが立ち向かっているのは、何より宇宙人による人類と地球への侵略の現実であり、人類による宇宙への侵略の現実である。彼はそれらに対して、二重性の襞を伴った頭脳で深く思考し決断し行動するのである。そのダンがこのように自分の心の中のことでうじうじ唸っているのは、いかに何でも似つかわしくなく、さすがに許容できない。脚本の佐々木守は、『セブン』はこの1本だけしか書いていない。

われわれは勝ったんだ。バンダ星人のロボットにも。そして人間の愛と信頼の戦いにも。

この唐突なキリヤマの締めの台詞をみても、本挿話については、佐々木が『セブン』の作品世界全体を十分咀嚼することなく、自らの主張と世界観を押し出して強引にまとめたという感は否めない。

その他、本挿話への言及として、いくつか挙げておく。

まずは、必殺技の独自性。ダン=セブンは、負傷したままで変身するも、エメリウム光線アイスラッガーも効かないクレージーゴンに苦戦する。普通に向かったのでは勝機が無いと判断したセブンは、ミクロ化してフルハシの持つエレクトロ・H・ガンの中に入り、自らを砲弾に仕立てて発砲を受け、巨大化しながら体当たりし、やっとのことでクレージーゴンを仕留める。これが、ウルトラマンタロウのウルトラダイナマイトの萌芽になったと見て間違いなかろう。

オサムの姉とウルトラ警備隊員たちが病院敷地の庭を行くラストシーンで、負傷したダンは車椅子に乗っていて、それをオサムの姉に押してもらっている。その様子を前方から振り返って見たアンヌが、ソガにからかわれ、いまいましそうにタンポポを吹き散らす。『ティガ』でのダイゴとレナや、『マックス』のカイトとミズキと夏海のようにまでさえ描かない、第1期に特有の、いっさい深追い無しの爽やかな描写。ダンとアンヌの関係を示す類似の描写は、「ダーク・ゾーン」を代表例としてもちろん他の挿話にも散見され、鑑賞するわれわれを楽しませるが、アンヌの嫉妬心、というより「ちょっとしたやきもち」の表現はこのシーンだけだと記憶する。実に軽妙で微笑ましい。