音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (26)

第 II 章 ダン=セブンという多面体

4 地球人とダン=セブンを見下ろす宇宙人

  第25話「零下140度の対決」

 「氷河期は宇宙人の仕業」という、ハリウッド映画ならばスペクタクル超大作の一本に仕上げられそうな優れたプロットを持つ。しかし、そこで描かれるのは、ダン=セブンの孤独性の確認、極寒を生き抜き非常事態の局面を打開しようとする人間の姿、およびその決断、努力、尊厳であり、「特撮SF怪獣物」としてはあまりに渋くて重い物語となっている。

 吹雪の中を行くポインター。だが、停まってしまう。中にはダンが一人で乗っていた。

───

ダンのモノローグ「これはただの吹雪ではない。いったい何がこの異常寒波を…」

───(金城 DVD[99f:25])

───

ナレーション「光の国M78星雲から来た彼は、普通の人間以上に寒さに弱かったのだ」

───(前掲DVD)

初めて語られるセブンの弱点。

───

アンヌ「こちら作戦室。…あ、ダン」

ダン「隊長、ポインターがエンストです。いったい、この寒波は?…」

キリヤマ「よーし。ポインターは捨てていい。すぐ基地に戻れ」

ダン「はい…」

キリヤマ「どうしたんだ、ダン」

───(前掲DVD)

 ダン=森次の顔の表情と声。それは、これまでに見たこと聞いたことのないほど、弱りきった、自信のない情けないものであった。「基地につけば、温かいコーヒーとスチームが俺を待ってるぞ…」(前掲DVD)と自分に言い聞かせ吹雪の中を進むダン。本挿話の冒頭まではメタ説明のナレーションとしての役割を果たしてきたはずの彼のモノローグも、今や単なる独り言になってしまった。ダンは歩いて基地に辿り着こうとする途中、寒さに震え、ついに倒れ、夕焼けの太陽が輝き火が燃えさかる幻覚を見る。その中に、ポール星人が登場する。

 先のメトロン星人も次のペロリンガ星人も、本節のテーマの通り、余裕を持って人類を見下ろす宇宙人である。が、地球の侵略が目的であるという点では、他の多くの星人とも変わるところはなかった。彼らはまだしも、地球・人類を本気で相手にし、欲望・目的の対象としている。ところが、ポール星人は違う。彼らは地球や人類など、別にどうでもいいのだ。つまり遊び道具なのである。

───

・ダン「誰だ、おまえは」

・ポール星人「地球を凍らせるためにやってきた、ポール星人だ。我々はこれまでにも、二度ばかり地球を氷詰めにしてやった。今度は3度めの氷河時代というわけだ」

・ダン「氷河時代?!」

・ポール星人「地球上の生きとし生けるもののすべてが、氷の中に閉じ込められてしまうのだ。ウルトラセブン、もちろん、おまえさんも一緒だ。ついでに言っておくが、地球防衛軍とやらを、まず手始めに凍らせてやった」

・ダン「なに!」

・ポール星人「あいつらがおると、何かと邪魔だからな。ハッハッハッハ…」

───(前掲DVD)

 ポール星人はいったいどうしてまたそんなことをするのか、劇中ではついに語られない。例えば子どもは、足下にアリの群れを見つけたとき、興味が湧いたらそこへしゃがみ、棒きれを差し出してその上を這わせてみたり、じょうろで水をかけてみたり、他にもいろいろと遊ぶだろう。アリと遊ぶのではなくアリで遊ぶのである。これらの行為には理由というものがない。何となくおもしろいからやるのだ。それが、アリにとってはふいに襲いかかる天変地異となる。地球・人類にとってのポール星人の恐ろしさとは、まさにこのアリにとっての子どもの恐ろしさに等しい。さしずめ、人類は《アリ》、ポール星人は《子ども》、怪獣ガンダーは《棒切れや水》に相当しよう。ポール星人のちょっとした遊びが、地球規模のまさに天災となる。人類にとってこれほどの恐怖・脅威があろうか。アリが、ただ棒切れや水に翻弄され、それらを差し向ける子どもの存在自体を知ることができずにいるのと同じく、地球防衛軍の隊員たちは、目前の敵・ガンダーのことはつきとめるが、ポール星人については、存在が確認されないばかりか、その存在について意識にさえ上ってこないままである。彼らは、上述の通り、ダンの前にだけ「幻覚を利用して姿を現す」(前掲DVD)のである。

 彼らは、人類にとってだけではなくダン=セブンにとっても最も手強い相手といってよい。「史上最大の侵略」者ではなくとも、史上最強の敵であろう。それにふさわしく、彼らは、他のどの星人たちよりもダン=セブンのことを熟知し、見透し、その上で、そのアイデンティティーに揺さぶりをかける台詞を次々と吐く。

───

「光の国が恋しいだろうね、ウルトラセブン。でも、自業自得というものだ。M78星雲には冬が無い。冷たい思いをするがいい、ウルトラセブン

───

───

ウルトラセブン、おまえの太陽エネルギーは、あと5分もすれば空っぽになる。地球がおまえの墓場になるのだ。さぞかし本望だろう。ハッハッハッハ…」

───

(以上、前掲DVD)

ダン=セブンが地球に滞在する理由については第 I 章で詳しく見た(「ウルトラセブンの純粋性」参照)。そのようなダン=セブンにとって、地球の氷河期に遭って倒れることはまさに「自業自得」であり「本望」でさえあろう。そう指摘して高笑いするポール星人の底知れぬ恐ろしさ。

 人類とダン=セブンの存在を高所から鳥瞰するポール星人のこの眼差しは、まさに脚本家・金城哲夫の眼差しである。メインライターの金城は、一方でもちろん、ウルトラシリーズの典型・正統ともいえる挿話群を担当しながら、他方でこのように、その狭義の世界観の外に出て、ウルトラセブンの限界を見据え、ダン=セブンのアイデンティティー自体を揺るがす問いを発するのである。

 そんな金城=ポール星人!は、さらなる追い打ちの試練をダンに与える。ダンは、吹雪の中にウルトラアイを落としてしまうのだ。彼はウルトラアイを何度か盗まれはするが、まったく自分の不注意だけが原因でそれを紛失してしまうというのは、この例をおいて他にはない。「ウルトラアイは、ぼくの命なのだ」と彼のモノローグはつぶやく(→注1)。それは、文字通りの命=生命という意味とは少し違う。ダンの姿のダン=セブンにとって、ウルトラアイは“アイデンティティーの命綱”であるのだ。ウルトラアイが無ければ、彼は本来の自分に戻ることはできない。それでは、彼は、セブンとしての自己に固執していたのか。違うだろう。彼には「この星」で人間(人類)として生きる覚悟がおそらくできていた。本稿でもいずれ触れることになろうが、『ウルトラセブン』の挿話群の全体を見通せば、そう結論するのが自然である。だが、彼が今、必死にウルトラアイを捜すのはなぜだったか。ひとえに「基地が危ない」(前掲DVD ダンのモノローグ)からであった。ダンはここでもやはり純粋で孤独な青年(「─序─」参照)であったのだ。

 ポール星人は凍結怪獣ガンダーを使い、「まず手始めに」防衛軍基地の動力源である原子炉を破壊した。異常寒波もガンダーの吐く冷気(→注2)に因る。突然の地震と停電に騒然とする基地内部。キリヤマはろうそくを片手に地下18階にある動力室の防衛軍隊員と交信、現場もパニック状態であると知り、フルハシとアマギを動力室の調査へと向かわせる。壊滅的な打撃を受けた動力室の奥で、2人はガンダーに遭遇。火炎銃で応戦するが歯が立たず、作戦室に引き返して状況を報告する。非常事態を受け、作戦室にはヤマオカ長官も来ていた。

  

・ヤマオカ「マグマライザーは?」

・キリヤマ「は…、シャッターが開かないんです。原子炉と地下ケーブルが復旧しない限り、ホークそのほか の超兵器も、使用不能です」

 ガンダーが原子炉を破壊する前、外から帰ってきたアマギに熱いコーヒーを差し出し、人類の科学を賞賛し楽観的に構えていたソガが、調達した防寒服を隊長たちに配布していそいそと動き回り、「超兵器も出動不能、レーダーも動かない、スチームもストップ、一発心臓部を破壊されると、さすがの科学基地も、脆いもんです」ともらす。

 寒さに倒れる防衛軍隊員が続出し、アンヌとともに必死の対応を続けていた救護班のアラキ隊員は、医者の責任として、隊員全300名の基地からの退避をヤマオカに要請する。しかしヤマオカは「…基地を見捨てることは地球を見捨てることと同じだ。われわれは地球を守る義務がある」(前掲DVD)と言って斥ける。しかしその後も、動力室の復旧作業の現場で次々と凍えて倒れて救護室に運ばれてくる隊員が後を絶たない。見かねたアラキは再び作戦室に駆け込み直訴する。

───

・アラキ「長官、もうがまんができません。長官、隊長、隊員がどうなってもいいとおっしゃるんですか。全員ここで討ち死にしろとおっしゃるんですか」

・キリヤマ「アラキ隊員、君には長官の気持ちがわからないのか」

・アラキ「わかりません。いいえ…、わかりたくありません。使命よりも人命です。人間一人の命は地球よりも重いって、隊長はいつも私たち隊員に…」

───(前掲DVD)

 アラキの鋭い返答に思わず絶句するキリヤマ。ヤマオカはアラキの説得にやっと頷き、退却を決断する。その直後についにヤマオカ自身も倒れ、キリヤマが代理で「涙を呑んで」(前掲DVD)退避命令を放送する。復旧作業に当たっていたフルハシ、ソガ、アマギ、修理班のムカイ班長、救護室のアラキとアンヌ、それぞれの現場でキリヤマの声に聞き入る。工具をかなぐり捨てて悔しがるアマギ、しかしムカイが緊張の糸を切らしダウンすると、彼を抱き上げ「基地から2km出れば、冷凍ゾーンから脱出できる」(前掲DVD)と励まし、避難を始める。だが、フルハシだけは命令に一時背く形で現場に居残り、「あと少しのはずだ」と言わんばかりに、一人作業を続ける。そして、彼の最後の溶接が功を奏し、基地の機能が復活するのである。

「ホーク1号を3つに分けて戦おう」「カルテット作戦、開始!」(前掲DVD)

音楽用語に喩えた、4機による攻撃を命じるキリヤマ。ここで例えば「ウルトラ警備隊のうた」の弦楽四重奏アレンジがバックに流れでもすれば粋なのだろうが、物語自体の重厚な内容が、そのような軽妙な演出を許さない。四重奏どころか、いつものBGMも全く用いられず、台詞・飛行音・攻撃音などの他は、ひたすら吹雪の轟音が聞こえるのみである。

 一方、ダンはといえば、ウルトラアイを紛失したため、出現したガンダーにミクラスで応戦、2匹の死闘が続く傍らでウルトラアイを捜し続け、ようやく見つけて変身する。しかし、セブンは、消耗しきった体力を回復するべくまず太陽の近くまで飛び、エネルギーを補充する必要があった。3機に分かれたホーク1号のうちの1つに乗り込んだアンヌは、キリヤマの指示通り(→注3)遅れなかったが、セブンは遅れて来ざるをえなかったのである。この点は重要である。ダン=セブンは、エネルギー補充後に戻り、アイスラッガーの一撃でガンダーを倒すのではあるが、カルテット作戦断行中のウルトラ警備隊とガンダーの中に割って入った形になってしまったようにも見える(→注4)。

───

ウルトラセブン、どうやら、我々ポール星人の負けらしい。第3氷河時代は諦めることにする。しかし、我々が敗北したのは、セブン、君に対してではない。地球人の忍耐だ。人間の持つ使命感だ。そのことをよーく知っておくがいい。ハッハ」

───(前掲DVD)

 実際、基地復旧に関わるすべての隊員たちの「忍耐」と「使命感」は、遊び半分のポール星人をして降参させるほどの威厳の光を放っていた。人間の尊厳が、黒く暗い基地内で、光らぬ光を放っていたのである。そのような者たちの威光の象徴・代表がウルトラ警備隊である。基地機能復活によって彼らの得た開放感・勢い・意気込みといった想念は、「さあ、ガンダーとの決戦だ」というナレーションの言葉に集約される。──怪獣ガンダーさえも、あのままウルトラ警備隊のカルテット作戦におけるチームワークによるだけで仕留めることができたのではないか──ポール星人の最後の言葉は暗示する。

 ダンは、「基地」にいなかった。隊員たちが支え続けたあの氷詰めの「基地」から、ずっと離れて、彼は何をしていたのか。初めに彼は、「基地」に“帰りたい”一心で遅々たる歩を進める。「基地」とはこの場合、人類の住む地球の象徴である。彼の吹雪の中の歩みは、「基地」の仲間に加わりたいがゆえの悲壮な努力にみえる。それには、寒さに弱い自分を風雪にさらすという自殺的(逆療法的?)行為によってその弱点を克服しなければならなかった。次に彼は、ウルトラアイを捜して右往左往する。「基地」を守るためには、本来の自分=ウルトラセブンに戻らねばならなかった。ここにダン=セブンの二重性の矛盾の一つが端的に表れる。彼が“「基地」を守る”ためには、彼は“「基地」に入れない”。実際、彼は、「基地」に入りたいのに入れず、「基地」を守りたいのに守れなかったのだった。ポール星人自身の証言も裏付けるように、地球・人類を守ったのは「基地」にいた人間たち自身である。かくして、彼は自己の存在の《ねじれ》を思い知ることになった。金城=ポール星人によって、ダン=セブンと人類・地球との本質的関係が、すなわち本質的無関係が示されたのである。

 ラストのナレーションで、終始蚊帳の外であったダン=セブンにようやく焦点が当たる。

───

[……]科学力を誇る地下秘密基地にも弱点があったように、われらがウルトラセブンにも思わざるアキレス腱があったのです。しかし、セブンの地球防衛の決意は、少しも怯むことはありません。

───(前掲DVD)

重く渋い人間ドラマが繰り広げられたはずの本挿話の中だけでみれば一見ちぐはぐなラストシーン。このラストは、なぜ置かれたのであろうか。それは、全49話中のちょうど中央に位置する第25話に当たる本挿話において、『ウルトラセブン』の作品全体のテーマを改めて確認するために他ならない。宇宙人でありながら地球と人類のために闘うという、ダン=セブンの同一性およびファイター・セブンのアイデンティティーの確認。物語は、自己の二重性の矛盾を抱えながらなお「地球防衛の決意」を固めるダンの勇壮な表情を伝えることで終わるのである。

 ガンダーを倒した直後に表れた、新たな弱点とされるセブンの額のビームランプの点滅。それは、ダン=セブンの存在の限界と悲劇性の改めての表現であろう。また、場面構成自体にも重要な意味が隠されている。上記ナレーションをバックに映し出されるのは、暗雲と吹雪が去って快晴となった青空であり、その空を飛ぶホーク1号・3号であり、それを手を振って見送り、明るく白い積雪の中を一人歩くダンであった。晴れやかな、平和が戻った喜びの描写。しかし、それだけではなかった。アイスラッガーで切り落とされた怪獣の首、それを見下ろすセブン、ナレーションとともに流れるあの名曲、最終カットのダンの顔のアップ…、これらはすべて、最終挿話「史上最大の侵略(後編)」と全くパラレルなのだ。また、セブンからダンに戻る描写(=セブンを囲んだリング状の光が人間大に縮小してダンになる)は、ダン誕生の挿話「地底GO!GO!GO!」や「史上最大の侵略(前編)」で重傷に倒れるダンを想起させる。

 「零下140度の対決」とは、このように多角的な意味で、『ウルトラセブン』という作品全体のマラソンにおける、みごとな折り返し地点であったのだ。

 最後に、本挿話における「フィクションが生きる」手法について補足しておきたい。ポール星人が、本節で取り上げている「人類とダン=セブンを見下ろす宇宙人」の系の中でもその「見下ろし具合」において数段格上であることは既に詳述した。さて、ではそのようなポール星人とは、いったいどんな姿をしていたのか。“史上最強”の彼らの凄さ・恐ろしさは、意匠造型としてはどのように表現されたのか。

 ポール星人は、ダンの目前の幻覚の中に3体現れる。彼らは、“小人”であった。細長い二等辺三角形の頭に手足が付いているだけの姿で、ふらふらと、マリオネットのような動きをするのだ。いや、《実際に》マリオネットなのだろう。つまり、本編の画像からだけでも、それが着ぐるみ型ではなく操演型で、おそらく実際の大きさも手もとで操るタイプの人形大だろうということが容易に想像できるのだ。「だからリアリティーに欠ける」のではない。その反対に、それがそのままかえってポール星人の小ささ/軽さを表現し得ているのである。動きからして吹けば飛ぶようなとんがり帽子の人形みたいな宇宙人が、地球と人類を凍らしひねりつぶす、という逆説。「本物っぽくない」「所詮実物大ではない」「作り物に過ぎない」という、通常はマイナスとなる特徴が、ここでは、ポール星人の存在と力を逆説的に見せつけるための手段として、見事にプラスに転化されそのまま用いられている。「アンドロイド0指令」における《ミニチュア特撮の逆説的リアリズム》の例を既に見たのであるが、それとはまた意味合いの異なった、しかしそれと双璧を成す、優れた特撮の《技法》をここに見ることができる。

注1:第3話(制作順としては第1話)「湖のひみつ」において発せられる。

注2:劇中では「冷凍光線」(アマギの台詞、前掲DVD)と称されるが、映像表現としては光線というより煙のような気体であるためこう書いた。

注3:3機分離直後、キリヤマは「アンヌ、遅れるな!」(前掲DVD)とその操縦を激励する。

注4:「ウルトラマンだけでは怪獣を倒すことはできない。みんなの力が必要だ」ということ。これを仮に(少し狭くとって)“科特隊の存在意義の問題”と呼ぼう。この問題を確認したりテーマにしたりする挿話がウルトラシリーズの他の作品では散見される。しかしそれらにはたいてい、ある種のわざとらしさや違和感がつきまとってしまう(それらの例については別の機会に書きたいと思う)。それとは対照的に、「零下140度の対決」においては、この問題について作中ではついに語られない。が、まさに、語られないというそのことによって、われわれ鑑賞者にはその問題が浮き彫りにされてくるのである。より詳しく言えば「語られている・浮き彫りにされている、とみてとることもできる」のである。「語らずにおくこと」、それが“科特隊の存在意義の問題”に対して作品世界自体が取り得る、すぐれて“噛み合った”スタイルの一つであるように思う。そして作品を視る側としては、こちらに開かれ預けられたその《行間》を読み込む“鑑賞の醍醐味”が生じるのであろう。