音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (7)

  音楽作品という多様体の表現論 (1)

 「作品の解釈」について、爆笑問題太田光は、次のように述べます。

───

太田 [……]少し前に僕は、テリー・ギリアムという映画監督と対談をしました。ギリアムの『フィッシャー・キング』という作品が好きで、あるシーンについて、「あれはこういう意味ですよね」と彼に聞いた。すると「それは違うよ。おまえの解釈は間違ってるよ」と言われたんです。そこで僕は彼にこう言った。「いや、あなたのほうこそ間違ってる。僕が解釈したことに、あなたがとやかく言う筋合いはないよ」と(笑)。

中沢 やりますね(笑)。

太田 ギリアムにとっては、僕の解釈は誤解かもしれない。でも、その誤解こそが僕の個性なんだし、もっと言えば誤解にこそ意味があると思うんです。芸術作品を見たときに、感動するのは、そこに誤解というギャップがあるからでしょう。作者の意図とは違うところで感動が生まれることはいくらでもあるし、むしろその幅が作品の力であると思う。

───(太田光中沢新一 『憲法9条世界遺産に』 集英社新書、2006年、29頁)

 僕が思索日記で書いたノリントンへの批判も、まさにこの太田の発言に通じることなのです。ノリントンは「解釈の余地はない」と言います。彼の場合、それは必ずしも作者を絶対視しているとも限りませんが、少なくとも、作品の表現の可能性を唯一視していることは間違いありません。しかし、太田の言う通り、「誤解」の可能性の「幅が作品の力」なのであり、優れた作品であるほど多様な表現の可能性に開かれている。太田の言葉を今われわれの問題にさらに引き寄せてみれば、「誤解というギャップ」とは「ヴィブラートの振幅」である、ということにでもなりましょうか(笑)。ノリントンマーラーのアダージェットにまでヴィブラートを排して臨んだそうです。多様性を排する、直線的単一的な思考へ向かうノリントンの採る表現法が、まさに実際に具体的なレベルで「直線的単一的」といっていいノンヴィブラート奏法である、という点が興味深いところです。このマーラー、明日聴く予定なので、その批評も含めまた近々続けようと思います。