音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (3)

 暗譜と暗譜主義(3)

 第1章

1.一つのオーケストラ音楽とは、一人の人間が事前に頭に入れられるほどに、疎な内容であるのか。

 ここには2つの意味があると思います。1つには、交響曲のスコアで言えば「ハイドンは憶えられてもマーラーは…」という、情報の分量自体の多さ・大きさの問題です。

 もう1つは、内容的な問題です。よく知っている(と考えていたはずの)箇所に、ふと新しいインスピレーションを得ることがあります。これは「曲を憶える/暗譜で振れる」といったこととは別種のことです。「スコアを100回見れば100の発見がある」と言われます。ならば本番中にもそうした発見があった方がいい。「暗譜で振っても、スコアが頭の中に入っているのだから、その頭の中のスコアをめくるうちに、同様の発見がありえる」というのも一つの論理でしょう。しかし、そういう「超人的」な特別な行為の必要はないと思われます。「楽譜を見て演奏する」というごく普通のありふれた行為の中に、思わぬ発見を伴う──そうした幸福の可能性こそが、音楽のすばらしさだろうと思います。そのすばらしさを預けてまで「暗譜でなければならない」理由は、やはり、音楽の本質から外の部分にあるといえます。これは次の2.ともつながります。

2.頭に入ったとして、「入ったのだから本番は暗譜で振らないといけない」ことにどうしてなるのか。

 小林研一郎は、指揮台の上(=指揮をしているとき)以外のステージ上では、つまり登場時や終演後の挨拶などのときは、客にも奏者にもいつも、「何もそこまで」と思わせるほど低姿勢です。立派さと謙虚さが溶け合ったようなそのパーソナリティーこそ彼の大きな魅力であり、人気の理由でしょう。次のメッセージも、いかにもそんな小林らしい。

───

 指揮者は、自分のまわりにいる楽員は、自分より才能がある人ばかりだということを忘れてはいけません。

───(小林 2006:42)

 しかし今は、この言葉が「暗譜と指揮」について述べる文脈で出てきたことに注意を向けると、ここで小林の言いたいことは、つまり「才能のある人々をしたがえる立場として、スコアを暗譜(するほどの勉強さえしないで)しないまま、スコアに視線を落としたまま指揮をすることなど許容されない」ということなのでしょう。よくわかりますが、音楽の本質から直接出た理由ではない、と言わねばなりません。暗譜するほど勉強しても、演奏(指揮)自体がわるければ×であるはずです。本番で“うつむき通す”指揮者であっても、すばらしい演奏を引き出せればそれでよい。なのに、「せめて暗譜で臨め」と言ってしまう。こういう精神論・努力論を出してしまうと、話は必ず本質から逸れていくのです。

 相当“弾ける”ヴァイオリンのアマチュアのXさんは、ギドン・クレーメルチャイコフスキーか誰かの協奏曲を置譜で演奏しているのを見て「暗譜で弾かないなんて許せない」と怒っていました。「暗譜か置譜か」は演奏の善し悪しとは無関係です。しかし、Xさんにはもはや、クレーメルがどんなにすごい音を出しどんなにすばらしい表現を示しても、そこに開眼しないほどには目が(耳が)曇ってしまっているでしょう。

 あるいは逆もあります。後にプロのホルン奏者となる同級生のYさんは、学生時代、僕がシベリウス第2をやると聞いて、佐渡裕の指揮で同曲を演奏した体験を語り「佐渡さんはあの曲を暗譜で振るなんてすごい」と言って、「あんたもがんばりや」的に話を収めました。当時の僕は、内心「ふん、それがどうした」とクールに受け止めていました。まあ、僕も僕で、井の中の蛙的自信?に満ちていた時期でもあったということはありますが、それでも、そのような醒めた見方をしたのは、単なる反発だけでもなく、当時から暗譜ということに価値を置いていなかったゆえのことだったとはいえます。

 ズデニェク・コシュラーがN響の定期で「春の祭典」を暗譜で振って、汗だくで終わると、楽員からも大きな拍手が起きた、という映像をTVで見た記憶もあります。僕にはそれが「マエストロ、よく暗譜でこなされましたね」というねぎらいの拍手に見えました。

「暗譜でないとダメ」とか「暗譜だからすごい」とかではなく、「目の前に出てくる音楽そのもの」に目を(耳を)向けたいものです。奏者としても、指揮者としても、聴衆としても。

3.オーケストラの楽員は必ず置譜である。

合奏形態の奏者は暗譜を免除?されるのが慣例のようです。独奏者は協奏曲の場合も個人リサイタルの場合も、通常暗譜です。独奏でも置譜の場合はもちろんあるようです。弦楽四重奏などで暗譜という例は、ありそうですが…。しかし、オーケストラが全員暗譜、という例を僕は知りません。なぜでしょうか。オーケストラの楽員というのは、個人プレーでない分、一人一人に権威や神秘性を帯びさせる必要がない、ということを一つの理由に挙げていいと思います。やはり「暗譜ってすごい」わけで、しかしそういう音楽家としての「すごさ」を舞台で示す必要は、オーケストラ奏者にはない、というわけです。オーケストラの楽員は、楽譜に書かれた音楽を演奏するのに、その楽譜を見ながら演奏する、という、ごく自然な行為を、何の言い訳も不要なままその通り自然な行為として行えるのです。

と、これだけ“置譜派”の立場を採る私ですが、次回は、最近得た知見をもとに、少し違ったトーンで暗譜─置譜について書いてみようと思います。

参考文献

[小林 2006]小林研一郎 『小林研一郎とオーケストラへ行こう』 旬報社、2006年。