音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (8)

  ロラン・バルト『物語の構造分析』

  (花輪光訳、みすず書房、1979年)

 この「クリ拾い」のコーナーでまだ書評というのを一度もやっていませんでした。「ちゃんと読んでから…」などと思っていると永遠に書けないので、もともと「拾い読み」と名付けたわけですし、ぽんぽんと数を打っていこうかと考え直しました。ですから書「評」というよりは、その書「について何か書く」というだけの、つまり“書書”とでもいったものに過ぎない場合も多くなるかとは思いますが、よろしくおつきあい下さい。

で、『物語の構造分析』です。もともとは、紀要『ウルトラマン批評』への執筆に関する“稚気ある向上心”から本書を手にとったのですが、いやあ、これがおもしろい。このような本に今頃出逢うなんて遅過ぎる、と思いました。それでも出逢ったからいいんですが。音楽テーゼ集の「楽譜とはテクストである」とは、バルトのテクスト論からヒントを得たものです。しかし、テーゼを書いた当時は、バルトについては「現代思想の冒険者たち」シリーズの『バルト』(鈴村和成、講談社、1996年)の初めの方をちょいとかじっただけのままでした。それが、本書の中の「作品からテクストへ」「作者の死」などは、まさに「楽譜とはテクストである」のテーゼの項で述べたこととみごとに符合していて、まさに「テクストの快楽」(と、これはちょっと/かなり意味が違いますが、まあいいでしょう)。

──彼は「テクスト」ごっこをして遊び(遊戯的な意味で)、「テクスト」を再生産する実践につとめるが、しかし、この実践が受動的、内面的なミメーシスに還元されることのないように[…]「テクスト」をもてあそぶ。《遊ぶ=演奏する》は、また音楽用語でもある、ということを忘れてはならない。それに(《芸術》としてではなく、実践としての)音楽の歴史は、「テクスト」の歴史とかなり並行している。能動的な愛好家が(少なくともある階級の内部には)数多くいて、《演奏すること》と《聴くこと》とが、ほとんど差異のない活動を構成していた時代があった。──102頁、「作品からテクストへ」より

[…]は中略。引用元の傍点部分をここでは太字で表した。またルビは省略した。

「演奏すること」と「聴くこと」とが差異のない活動を構成する、能動的な愛好家──僕の音楽活動の理想および実践にみごとに符合するではありませんか。ハッハ。

作者というのは近代の産物だとも(「作者の死」)。神話や昔話には作者がいないという例がわかりやすいですね。ところが、「作者がいる」と、作品の価値や内容が、作者の意図や作者の人格などによって考えられてしまう。「作品の説明が、常に、作品を生みだした者の側に求められ」(81頁)てしまう、ということです。テクスト論は文学の世界では一つのスタンダードな切り口になっているのに、わが音楽界はどうでしょう。古楽器奏法であろうがロマン的表現であろうが、ほとんどすべての場合において、作者の意図と人格・性格あるいは時代性にどれだけ依拠しているかを競うことはあっても、そこから離れることはまったくしないではありませんか。音楽家の頭の中の方法=技術(アート)は、文学より数十年遅れていると言わざるを得ません。