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クリ拾い (10)

  小森陽一『心脳コントロール社会』(2006年、ちくま新書

 「心脳コントロール」というのは、以前からの語でいえば「マインドコントロール」のことなのでしょうが、最近の“脳科学”ブームに乗って「心脳」という新語?によって呼ばれるようになっているようです。

 小森は、脳科学の知見を取り入れた「心脳マーケティング」がアメリカや日本の政治的プロパガンダにも利用されていた(いる)と論じます。人々が言葉に対して持つイメージを利用し、言葉を言い換え、意味をすり替えて一定の意見・言説へと誘導する「心脳操作」が行われている、その罠に陥らないためには、「快─不快」「敵─味方」などの二項対立で判断せず、歴史認識的・因果論的な思考に基づいて「なぜ」と問い続けることが必要だろうと説きます。本書には出て来ませんが、例えば「メタボリック症候群」について、「自分もウエストが○○cmになってしまった」「ダイエットしなくては」「スポーツを始めよう」「まずはメタボのことを書いた本でも読もう」とただただ反応するのではなくて、「なぜ今急にこのような新語で叫ばれるようになったか」「その語とイメージをふれこむことで、得をするのは誰か(薬屋とかトレーニング器具メーカーとか?)」と考えるのがよいということですね。

 本書における小森の議論には大いに頷けます。が、一点、惜しいなと思うのは、まさに書名の「心脳」という用語です。小森自身の説明によれば「心脳という概念は─中略─英語では“mind / brain”」となるとのこと。つまりmindを心と訳していることになります。ここは、「心脳」という日本語訳自体は小森によるのではありませんから彼だけの責任ではないのですが、重要な点ではあります。

この問題について明解な説明をしているのが予備校講師・表三郎です。彼はカセットテープ『スーパー英文読解法講義』(論創社、1995年)の中で、日本語における「心」という語の曖昧さ・安直さに注意を促します。──本来、その聞き書きをここで引用すべきですが、何せ『スーパー英文読解法講義』は90分10巻に渡る膨大な量で、どこでの発言だったか“起こす”のが容易ではありません…。いずれ必ず(頭掻)。──「精神」とすれば「心」よりはいいのでしょうが、まだあやふやで、例えば「スポ根的精神論」などというときの「精神」はもう「心」と同義でしょう。mindはむしろ知性・理性・思考を司る語だという意味のことを表は言っています。手もとの『アドバンストフェイバリット英和辞典』(東京書籍、2002年)を見ても、語源の項では「記憶、思考が原義」とあり、語義の第1項目には「(知性・思考・意識の機能としての)心、精神」とあります。

通常は、以前からの語である「マインドコントロール」についても「心をコントロールされること」と解されていますよね。さらに「心脳コントロール」という真新しい表現には直接「心」という文字が入っています。しかし、mindの原義が「記憶」「思考」で、語義が「知性・思考・意識の機能」だとすれば「心脳コントロール」とは実はまさに「思考コントロール」「記憶コントロール」なのでありましょう。確かに「心を操られるなんて、怖い怖い」と思いますが、「思考を操られる」と言った方がもっとずっと空恐ろしく僕には響きます。「思考をマーケティングされる」と聞けば戦慄をおぼえずにいられません。心というのは「思考」よりも「感情」と親和しますよね。むしろそれはたやすく移ろうものでしょう。つまり、「操られる」ことに無防備、すなわちこの動詞の目的語となることへの違和感が少ないとも言える。実はしかし「知性」「思考」「考えることそのものの機能」がいつのまにか誰かに支配されるとすれば…。「怖い怖い」と思っていたはずが、実は「mind=心」と訳されることで、それでもまだ薄められて伝わっていたと言えます。確かに小森の言うように、ときにはこうして一語の訳語の選択によって図らずも操られることがあるわけですね。