音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人 (32)

第 IV 章 ダン=セブンという多面体 (2)

3 標的としてのウルトラセブン

  第39・40話「セブン暗殺計画」 (1)

 怪獣アロンのモノクロ写真のスピード回転とショック効果音的な管楽器のトリル。「セブン暗殺計画」と銘打った本編にふさわしい映像と音楽でそれは始まる。スロー再生とおぼしき効果によるガッツ星人の声も、一度聞いたら忘れないインパクトを与える。それは多くの視聴者である子どもにとっても特にそうであろう。昔、筆者も友人と「セブン」をネタにして遊ぶときは、よくこのガッツ星人の「セ、ブ、ン、は、」という台詞をまねしたものである。

 本稿ではこれまで『ウルトラセブン』を主に「大人の鑑賞」に耐えうる作品として論じてきたし、あくまでそこを主眼とはする。が、『セブン』が「SF特撮変身ヒーロー物」である以上、子どもが見てわかる、子どもがおもしろいと思える要素があって初めて作品として成り立つことは言うまでもない。「現役の子ども」としては、『ウルトラセブン』といえば、「どのカプセル怪獣が好きか」とか、「滝をくぐるホーク3号がしぶい」とか、「何たってキングジョーはつよい」「いやいや、やっぱりガッツ星人だろう」とか、キャラクターやアイテム中心に据えた興味の向け方がメインであろうし、筆者ももちろんそうだった。しかし、それは今こうして『セブン』論を展開しているそのことと切り離されてあるのではない。すぐれたエンターテインメントとは、もはやそうしたことを超越するというか包括するというか、すべてあってのそれであろう。プロット、シナリオ、演出、キャスト、キャラクター、アイテム等々、どのような視点からの興味にも応ずる力を備え、なおかつ、それらが「それぞれよい」「何をとってもよい」という意味合いだけに留まらず、全体として有機的につながっている。世界、あるいは世界観ができあがるのである。そしてそれは、当の「現役の子ども」たちにも某か伝わるものである。「子どもだまし」では、子どもはだませない、と思う。

 そのような世界・世界観の存続は、作り手側の努力と作業だけによるのではない。それを鑑賞するわれわれも、その「世界」に参加しているといえる。鑑賞者の感想・批評・視点というのも、作品と接触して広がって行く「世界」の一部となっているはずなのである。誤解されては困るのだが、このことは、「百人いれば感想も百通り」などという平凡な言い方で収まるようなことでは到底ない。「感じ方/見方は人それぞれ」という物言いは、往々にして『ジュラシック・パーク』や『スパイダーマン』を見て「すごーい」とか「泣ける」とか言っているような浅はかで受動的な享楽をも安易に肯定してしまう。そこには世界観の広がりなどありはしない。対して、総称としての“われらがウルトラマン”は、能動的な鑑賞に向けて開かれた、広大深遠な世界観(の可能性)を確かに持っているのである。ささやかながら本稿も、『ウルトラセブン』の世界に薄皮一枚分ほど上塗りすることで「世界観の発見/付加」を行おうという自覚のもとに書かれている。

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