音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(18) II.3

第 II 章 ダン=セブンという多面体

3 ダン=セブンと対話する宇宙人

  第16話「闇に光る目」

 ダン=セブンがその自らの「セブン性」を生かし、地球人と他星人との仲介役に回り、両者の和解を成功させた唯一の例を描いた挿話である。

 物語は、アンノン星調査のために打ち上げられたが消息を断っていた無人宇宙船サクラ9号が、誰もその「回収作業」を行っていないのに、突然現れ、地球に帰ってくる所から始まる。実は、アンノン星計画を侵略だと誤解して怒ったアンノン(星人)が、このサクラ9号に乗って地球にやって来たのである。アンノンは、『帰ってきたウルトラマン』の化石怪獣ステゴンのごとき、4本足の恐竜型の体を持つ。その(小型化した)身体を、サクラ9号を自爆させたときに飛ばしてしまい、いじめられっ子の少年に拾われ持ち帰られてしまったのだった。アンノンは少年にテレパシーで語りかけ、「強い子にしてあげる」と取り引きをもちかけつつ、その身体を返すよう求める。

 物語の終盤、キリヤマとアンノンは対話する。

───

キリヤマ「おまえは地球に何しに来たんだ」

アンノン「われわれのアンノン星を攻撃して来た地球を破滅させにだ」

キリヤマ「攻撃だって?それは違う。われわれが宇宙船を打ち上げたのは、宇宙の平和利用のためだったんだ」

アンノン「地球人の言うことは信じられない」

───(藤川 DVD[99d:16])

それはそうだろう。ペダン星人の訴えと同様である。アンノンの場合はさらに、ペダン星人のように侵略を企む裏の顔さえなく、彼らなりに筋の通った怒りの表明および報復攻撃のためにやってきた。第三者として傍観する我々としても、人類とアンノンを比べれば、どうしたって後者の主張に分があると判断せざるをえない。

───

セブン「アンノン、キリヤマが言ったことは嘘ではない。地球人は、決して君の星を侵略したのではないのだ」

アンノン「ほんとうなのだな」

セブン「私も同じ宇宙人だ。嘘は言わない」

アンノン「ようし。セブンの言うことは信用しよう。しかし、アンノン星は、いかなる星からの侵略目標にもさせない」

───(前掲DVD)

 ダン=セブンは、「私も同じ宇宙人」という意味の言葉を、既に述べたように、「ウルトラ警備隊西へ」のペダン星人との対話においても発している。これは彼のキーフレーズの一つである。が、ここではこの台詞を発するのは上記のようにダンではなくセブンであり、キリヤマ以下、ウルトラ警備隊員たちもその対話のすべてを聞いている。つまり公の場における発言なのである。そのことによって、「セブンのおかげで和解が成立したこと」が鑑賞者のわれわれのみならず隊員たち(すなわち劇中の地球人の代表)にも一斉に公に伝わるのである。

 クール星人との戦闘にアイデアを与え、死に際のキュラソ星脱獄囚を諭しつつ見送った、スーパーヴァイザーとしての立場から、一歩踏み込んで、地球人と他星人との関係を取り持つ調停人となったダン=セブン。第3者として俯瞰者として状況を見据え、最適な結論へとリードするという、このような役に回るダン=セブンこそ、本来、侵略をテーマに掲げた『セブン』における主人公としての理想像の一つであろう。しかし、ダン=セブンのその自ら理想とすべき行動が、結実・成功したのは、後にも先にもこのときだけであった。

上記の最後の台詞の後、その眼(の光)だけが分離して飛んで行く。

───

アマギ「あいつ、眼だけじゃないか」

キリヤマ「おそらく、頭脳だけの宇宙人なんだろう」

───(前掲DVD)

 知的生命の象徴としての眼。アンノンは、いったん少年に拾ろわれ持ち去られた石を引き取ってそれを巨大化させて自分の身体にするまでは、木の幹や岩肌などに緑色に光る眼としてだけ姿を現し、石を拾った少年にはどこからともなく声(テレパシー)だけで語りかける。存在のそのような描写によって、アンノンが人類よりも数段高度に知的で、セブンとも対等以上の存在に映る。なるほど、アンノンは、人類に対して報復の意志を表明しはしたが、結局、野蛮なところは全く無く暴力ともほとんど無縁で、セブンの説得に応じ、その“知的な怒り”を鎮め、静かに帰っていく。それを追うように飛行するセブン。

───

「セブン、おまえはこの星に残るのか」

「ああ」

「どうしてまた?」

「この美しい星を狙う侵略者が後を絶たない」

「それは余計なお世話というものだ。私なら私の星は私自身で守りたい。今日のように。地球人も同じではないのか」

「……」

「まあよい。私には関係のないことだ。さらばだ」

───(引用ではなく、筆者の創作)

去る者と留まる者の束の間の並行の時間に、アンノンとセブンのテレパシーはこのような会話を交わしていたのではないだろうか。既に述べたように、確かにセブンの仲介は成功した。だが、夜の画面の暗さに象徴されるように、ここではその成功の明るい喜びが表現されることが主ではなく、むしろ、去り際のアンノンの「自分の星をいかなる星からの侵略目標にもさせない」という強いメッセージこそが心に刻まれるのである。

 さて、全挿話を通じても、セブンが何か言葉をしゃべる場面というのは数少ないが、その時「声の一致」によってダン=セブンの同一性が保たれていることは先に見た(第1章の注参照)。ここでは、ダンと同じ声のセブンがキリヤマのことを「キリヤマ」と呼び捨てにすることによって、さらりと「セブンのセブン性」も同時に表現されている。しかも声だけを聞くとダンがキリヤマを呼び捨てにしているようにも聞こえ、「ダン=セブンの二重性」のうちの「ダンのセブン性」までもが表出される面白さがある。この場面でセブンがキリヤマのことをダンと同じく「隊長」と言うようでは、著しい違和感があるばかりでなく、セブンの宇宙人・調停人としての格がかなり下がってしまうだろう。なるほど細かな技術面を論じるなら、全ウルトラシリーズを通じて、何かと台詞回しの稚拙さも目立つことは否めないし、『セブン』においてもそれは同様である。そのような点も追々本稿で紹介検討していくことにはなろう。しかし『セブン』の作品世界/脚本の場合、こういう、「誰が誰にどんな人称を使うか」といった、ちょっとした、しかし本質に関わる部分において、単に筋が通っているだけでなく、まさにその部分をそうしたことで作品世界の本質が浮き彫りにされるように現れることがあり、ハッとさせられるのである。

 かくして、「ウルトラ警備隊西へ」においてダンは裏切られたが、「闇に光る目」においてセブンは調停の役目を果たせた。このこともダン=セブンの二重性を象徴する結果といえる。ダン=セブンは、自らの理念・理想の遂行に、地球人の姿のダンとしては失敗したが、本来のM78星雲人の姿のセブンとしては成功したのである。人類と他星人の問題に第3者として“割って入る”のは、やはりダンよりセブンの方がふさわしかったのだ。