音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (13)

  2007年

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《美は教育はしません。》 ─中略─ 美的な完全さについての「一般的観念」はありません。バッハのフーガを聞くとき、完全なのはそのフーガ自体なのです。

シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』 ちくま学芸文庫、1996年、296頁) 

──ヴェーユが高校3年生に対する「哲学」の授業で説いた言葉──

 教育とは一つの働きかけです。それに対して、美は、美からこちらには働きかけず、それを美と捉え得る者とのみつながりを持つのです。

 TVなどで教育や学校が話題になるとき「私たちは○○の活動を通じて、○○の楽しさを子どもたちに伝えていきたい」というフレーズをよく耳にしますが、そうやって伝えなければ伝わらないような楽しさは、ほんとうの楽しさとは言えないのではないでしょうか。ほんとうに楽しいことには自然と人(子ども)が寄って来る、ということであってほしい。

 音楽は、「私たちの活動」など通じなくても、初めから楽しいもののはずです。「音楽の楽しさ」という「一般的観念」は無く、バッハのフーガ自体の楽しさがあるのみです。これは、芸術音楽を何か崇高で特別なものとして見たいのではなく、その逆です。「単なる音楽《それ自体》」に、外から他のお題目を掲げることなく、たいそうなことではなく向き合いたいということです。私などが「教育の働きかけ」をもし成し得るとすれば、そこから行うしかないのだろうと考えています。