音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(5) I.1-2

第I章 ダン=セブンの二重性 

第1節 ダンとセブンの同一性

1-2 ウルトラマンとは誰か

    ハヤタとは誰か

 さて、問題はこの名場面の直後なのだ。独立の命を授かり、ウルトラマンと分離したハヤタの開口一番の台詞は次の通りである。

───

「キャップ!あれですよ。あの赤い球ですよ…僕が竜が森で衝突して…衝突して今までどうなっていたのかなあ…」

───(金城 DVD[00j]:39)

 何と、ハヤタにはウルトラマンと同体であった期間の記憶が無いのである。ここで二つの可能性が考えられる。一つは「ハヤタの人格=ハヤタという人間は、ウルトラマンとの同体期間においては、そもそも存在しなかった(同体期間のハヤタはハヤタの身体を持ったウルトラマンであった)」という可能性、もう一つは「ハヤタの身体は同体期間においても(元の)ハヤタの人格を持っていたが、その記憶が消えた(ウルトラマンゾフィー)によって消された)」という可能性である。ウルトラマンゾフィーに「ハヤタは立派な人間だ」と訴える台詞などから判断すれば後者であろう(「ウルトラマンは超人だから、最初に出会った瞬間にハヤタの人格を察知できる」という見方もあろうが、いかにも不自然だ)。他の各挿話を見てもそう考えるのが概ね自然である。ところが、今「概ね自然」と書いたが、第33話「禁じられた言葉」におけるメフィラス星人とハヤタの対話の一部に次のような下りがある。

───

「(目前のハヤタに向かって)黙れ、ウルトラマン! 貴様は宇宙人なのか、人間なのか。」

「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破る奴と闘うために生まれてきたのだ。」

───(金城 DVD[00i]:33)

 してみると、同体期間のハヤタは彼自身の人格とウルトラマンの人格とを兼ねていたということなのだろうか。結局、同体期間のハヤタの身体が備える人格については、(1) ウルトラマン、(2) ハヤタ、(3) ウルトラマン兼ハヤタ、の三つの可能性のうち、(3) が最も有力になる。とすれば((2) だとしてもそうだが)、ハヤタはゾフィーもしくはウルトラマンによって分離時に記憶を消されたのであり、その理由は例えば「ウルトラマンは地球人と同体となっていたことを秘密にしたかった。同体であったことを知る地球人はハヤタ自身だけである」ということになろう(記憶は「消された」のではなく、例えば分離時の何らかのショックで「消えた」という解釈も成り立つが、そうであっても以下の主旨は通じる)。《分離》後のハヤタは、この「(同体期間の)ハヤタとは誰か/ウルトラマンとは誰か」というテーマの説明を必然的に背負うことになるはずであった。ところがその彼に同体期間の記憶が無いのでは、如何ともし難い。「最終回のゾフィー飛来のシーンは第1回のウルトラマン飛来のシーンとパラレルであり、時間的に離れた第一回と最終回をハヤタの記憶の切断によって逆説的につなげており、見事な整合性を持つ」とする評価が、池田憲章らを始め一般的なようだ(池田、岸川 [80]:96)。しかしそれでは、ハヤタとは誰か。劇中のハヤタとはいったい、ハヤタだったのか、ウルトラマンだったのか。『ウルトラマン』には、「地球人」を「好きになった」銀色の謎の巨人ウルトラマンと、彼に助けられ彼とともに闘いともに喜び悲しみ過ごしてきた地球人=わたしたちとの、「交信」「ふれあい」を描いてきた、という一面がもちろんあるだろう。そういう、くさい芝居に陥りがちなテーマを、それを目的にしてしまわずに、各挿話のそこここにサラリと小出しにしてきた『ウルトラマン』のドラマ作りのセンスは大いに評価したい。しかし、そのドラマの完結に当たって、主人公ハヤタの存在が宙に浮いてしまった。結局彼は『ウルトラマン』には「存在しなかった」ということである。「同体期間の彼に彼自身の人格は無かった」とすれば文字どおり存在しなかったのだし、「あったがその記憶を消された」ということなら、その存在が無にされた=存在しなかったことにされた(記憶が消えた→存在が無になった=存在しなかったことになった)、ということである。いずれにせよ、ハヤタあるいはハヤタの身体は、「わたしたち」とウルトラマンとのヒューマンな関係の、その内にも外にも属さない「橋渡し/連結器」の役目を担ったに過ぎなかったのだ。

 ゾフィーが「ハヤタを分離」してすぐ、地球を去って行くウルトラマンと「わたしたち」とのお別れのときがやってくる。

───

アキコ「ウルトラマン、さようならー!」

 手をふる科特隊員達。

 (「さようならー、ウルトラマーン」という子供達の明るい声が画面にかぶり始める)

ナレーション「さようなら、ウルトラマン。人類の平和と正義を守るため、はるかM78星雲からやって来たウルトラマン。凶暴な怪獣たちを倒し、宇宙の侵略者たちと戦ってくれた我等のウルトラマンがとうとう光の国へ帰る日が来たのです。ウルトラマンもこの地球が平和な光に満ちた星となることを祈っているにちがいない。ウルトラマンありがとう。ウルトラマン、さようなら」

───(池田、岸川 [80]:112)

 だが、そのときハヤタは、立ちつくし、誰もが感動をもって見送るウルトラマン(とゾフィー)のことを、ただきょとんと見上げる以外になかったのであった。彼は「彼自身がウルトラマンであった」にもかかわらず、物語の最後の最後で置き去りにされ、おそらくは地球上でたった一人の「ウルトラマンを知らない人間」になってしまった。その意味において、まさにハヤタこそが「ひとりぼっちの地球人」(→注3)になってしまったのだ。かわいそうなハヤタ。これを ハヤタの悲劇 と呼ばずして何としよう。

注3:『ウルトラセブン』第29話の挿話名。本稿のタイトルもここから採った。