音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(4) I.1-2

第I章 ダン=セブンの二重性 

第1節 ダンとセブンの同一性

1-2 ウルトラマンとは誰か

 ~変身の二義性とヒーローのアイデンティティー~

 以上のように、「ウルトラセブンウルトラマンの相違」は「主観的純粋感動と客観的大義名分の相違」とまとめてよい。そして翻って考えれば、その相違の生じる根幹となるのが「ダンとハヤタの相違」である。ウルトラマンの大義名分はハヤタが彼とは別人であることによって初めて成り立つ。一方ウルトラセブンの純粋性は彼とダンとの同一性をもってこそのものである。ダン=セブンの同一性がいかに『セブン』の各挿話において生きて描かれるかを見ていくのは第II章以降に譲り、ここでは、別人型、すなわち「一心同体」となる地球人が《実在》するタイプについての問題点を、いくつかの例を引きながら見ていくことにする。

  ハヤタとは誰か 

 『ウルトラマン』最終回「さらばウルトラマン」で、ウルトラマンは宇宙恐竜ゼットンとの闘いに敗れ倒れた(→注2)。光の国からの使者ゾフィーが地球を訪れる。ウルトラマンを救うため、そして光の国へ連れて帰るためである。

───

ウルトラマン、眼を開け。私はM78星雲の宇宙警備隊員ゾフィー。さあ、私と一緒に光の国へ帰ろう、ウルトラマン。」

ゾフィー、私の体は私だけのものではない。私が帰ったら、一人の地球人が死んでしまうのだ。」

ウルトラマン、おまえはもう充分地球のために尽くしたのだ。地球人も、許してくれるだろう。」

「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできぬ。私は地球に残る。」

「地球の平和は、人間の手でつかみ取ることに価値がある。いつまでも地球にいてはいかん。」

ゾフィー、それならば、私の命をハヤタにあげて、地球を去りたい。」

「おまえは死んでもいいのか。」

「かまわぬ。私はもう2万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それに、ハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない。」

ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか。よーし、私は、命を、二つ、持ってきた。その一つをハヤタにやろう。」

「ありがとう、ゾフィー。」

「では、ハヤタと君の体を分離するぞ!」

───(金城 DVD[00j]:39)

 なかなかに感銘深いシナリオである。普通であれば単なる喩えとして陳腐に響く「私の体は私だけのものではない」という一言が、ここでは文字どおりの意味と《リアリティー》を持ちえる。つまり、「他人同士が一心同体である」ということが比喩の意味しか持ちえない現実の世界と違って、この『ウルトラマン』の架空世界においては、ウルトラマンとハヤタが《ほんとうに》同体なのであり、ウルトラマン自身によるこの台詞が切実な重みを持って訴えかけ得るのだ。現実の世界での仮想的な言葉が、架空の世界での現実的な言葉となる…これこそ優れたフィクションの在り方といえよう。それは、「子ども向けの《巨大ヒーロー対怪獣の特撮物》という枠組の制限の中でもこれほどのドラマを描きえる」ということではない。むろん『マン』であれ『セブン』であれそうしたことをもなし得ているのだが、ここで言っているのはそのことではない。子ども向け特撮物“でもできる”という消極的な評価を受けるだけに終わらず、逆に、《巨大ヒーロー対怪獣の特撮物》“であることによってこそできる”ことを自らしっかりと見出し盛り込みえたところがさらに優れているのである。──それだけならよくある展開や台詞が、架空世界の中に置かれることで、思わぬ光が当たり、深みが増す──このことを《フィクションが生きる》《フィクションを生かす》と呼ぶことにしよう。第一期ウルトラシリーズにおいて、フィクションを生かすための作り手自らのこういった見識/実力がかいまみえるからこそ、「ウルトラシリーズ批評」が成立し得るのである。実は、他ならぬウルトラマンとハヤタの「非同一性」の設定自体にの問題点があるというのが本章の主題ではある。だが、それはこの直後に述べるとして、このゾフィーウルトラマンの対話は、その「非同一性」というフィクションがみごとに生かされ結実した例であるといってよい。

注2:例えば第3話「科特隊出撃せよ」では透明怪獣ネロンガの光線を浴びてもびくともせず胸を張っていたウルトラマンが、ゼットンの光線をカラータイマーに浴びてばったりと倒れるこのシーンは衝撃であった。これは、第二期ウルトラシリーズ以降のヒーロー達が倒れることとは全く性質の異なる事件であることを銘記すべきだ。出てくる度に一回ピンチになったり、強い怪獣にやられては甦ったりする彼らと、ウルトラマン(およびセブン)とは格が違うのである。「ピンチを乗り越えて最後に勝つ」という運びがウルトラに限らず古今のヒーロー/ヒロイン物の典型となっているが、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』は、少なくともそのような典型に安住・依存して作られてはいなかった。もちろんその典型に相当する挿話もいくつかあるが、それは依存とは違う。