音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (7)

   2000年

 吹奏楽部の彼女ら彼らと普段一緒に音楽をやっていると、正直、即刻中断して帰りたくなる程ひどい状態のときもありますが、調子のいいときは、確かにミューズの神が訪れたかのような豊かな響きの出ることがあります。こういう稀なる瞬間を彼女ら彼らとともに過ごせるのであれば、別に定期演奏会なんて要らないとも思えます。ただ集まって、ただ音楽を楽しく演奏でき、その時間を仲間と共有できればそれでいい。“豊かな、真の自己満足の輪”とでも呼びましょうか。ところが、その実現は存外に難しい。

 「ただの自己満足ではいけない」などとよく言われます。「ただの」を「低い」とすれば一応その通りでしょうが、これを言う人はたいてい「自己満足」自体に負の“内省的”価値を置いていて、同時に「お客さんのことも考えて」などという“外向き”の言い方とセットにしたりします。「音楽表現および楽器技術は“自己─内”における肉体と精神の錬磨領域/選曲や舞台演出は“他者─外”に対する快適性への配慮領域」という二元的構図。しかしそもそも、自己満足の語を卑小に捉えている人が他人の満足を「考え」たところで、それらはたいてい安手の媚びまたは驕りとなります。芸術の営みとはもっと実直な何かであり、「錬磨」も「配慮」も不要、いえ、むしろ有害です。

 「苦しく辛い練習を経てこそ大きな目標が達成される」などともよく聞かれます。「辛苦を経ても達せられるとは限らない」と言うならまだ分かりますが、そういう本当の厳しさとは無縁だから、最後は決まって「みんなよくやった」と認める(ようなことを言う)ことでおさめてしまう。

 本物の音楽とは、もっと繊細で複雑で懐が深く、方法や過程に精神論を持ち込めるほど甘くはありません。楽しむ術を見出せず“厳しがる”ことしかできないのなら、音楽することをやめるべきでしょう。このように、甘いのは実は他ならぬ“厳しがりや”の方だと僕は常々感じています。

 加えて、「目標に向けて」というのにも、違和感がずっとある。繰り返しますが、目標など無くともただ楽しく音楽を享受できれば、それでいいはずです。もちろん、演奏を発表したい/記録(録音)したい、という気持ちは僕にも備わります。それとは別に、目標を持たせそれを達成させ…という学校的教育観をここでは問題にしています。ところが、彼女ら彼らが普段の練習で時にいい音楽を奏でるのは、定期演奏会という目標のために「頑張っている」結果でしょう。しかも、こういう大行事では、準備や企画など非本質的な方の課題を達成した充実感(=「低い」自己満足)の方がクローズアップされます。この状態がむしろ美化され、先述の大事な方の「自己満足」が置き忘れられる、というのが学校教育の場の典型です。

 生徒たちの周囲が、または生徒たち自身の頭と心の中が、以上に見たような《厳しがりやの言説》《目標達成の充実幻想》で満ち溢れているという、状況の困難さ。そしてもとよりある、芸術本来の難しさ。もし状況が理想的な方向に急転したとしても、そのときは生徒たちの「自己満足」自体がもはや「低い」レベルにはないばかりか、自他の“反転”が起き、「自分が満足できないものを他人が満足できるはずがない」という意識が芽生えるほどになってくるだろうからです。「ただ集まり、ただ楽しみ、それを共有する」ことは、この二重の意味で、たいへん難しいことなのです。

 それでも希望はあります。モーニング娘の曲の合奏では、みんないきいきと音を出しました(→注)。身近なのでしょう。さほど頑張らなくてもいい音楽になる。彼女ら彼らにとって、例えばベートーヴェンチャイコフスキーもこのように身近にならないか。そのために僕はさらに何をすべきか。

  

  

注:新語や流行語に対してすぐに「日本語の乱れ」と爺くさく嘆くことは控えたいのですが、あえて何か挙げよと言われれば、日本語の最も深刻で破壊的な一例として、僕は迷わず「モーニング娘。」の句点「。」を挙げます。これこそ日本語書き言葉の根幹に障る暴挙でしょう。句点は文の終わりを示す記号であり、文章中それが別の用途に使われることなど許容されるはずがない。それをあろうことか固有名詞(の飾り)にするとは。「文章(のようなもの)を名前にしている」などという理屈でもこねるのでしょうか。僕は、知っていても、雑誌や新聞でモーニング娘の記事を目にする度、そこで文がいきなり完結したかと思って混乱します。モーニング娘の存在を知らない、あるいはよくは知らない日本語の読み書きのできる老若男女1000人に「モーニング娘。」の表記を含んだ文や文章を、あるいは単独でもいい、見せたとすれば、しばらくその前後を読み返し(単独の場合はしばらくそれを眺め)、1000人が1000人「あれ…このマルはおかしいな」「間違いだな」と思うでしょう。そのような表記が不適切でなくて何でしょう。「おかしいな」と目に止まることも狙いなのでしょうが、ならばそういう狙い自体がまさに「不適切」です。それとも「彼女たちを知らない、あるいはよくは知らない人なんてもう全国に1000人もいないから、かまわない」のでしょうか。そもそもどうして(マス)メディア特に活字メディアまでもがこの表記をそろって受容してしまったのか。そういえば、夫婦漫才コンビの「かつみ・さゆり」は、中央のナカテンをハートマークにした表記を新芸名として登録したのにその新聞掲載が認められなかった、と歎いていました。「つのだ☆ひろ」というのもありますね。こういう、固有名詞自体とそのいわば“ロゴデザイン(の真似事)”との混同を、あちこちで見かけます。「かつみ・さゆり」の例のように、せいぜい失笑を買う程度の「乱れ」で済めばいいのですが、モーニング娘。は違う。…すみません、ほらね、今まさに話題にしていてさえ、一瞬「はぁ?」と読みの不愉快な停止がありませんでしたか。類似の問題としては、英字アルファベットに濁点を付ける、というのがあります。携帯電話の商品名かサービス名かで「H''」で「エッヂ」と読ませるのがあったかと思います。もはや中高生の落書きと同レベル。そこが狙いなのはもちろん承知です。だからこその指摘です。