音楽の編み物

シューチョのブログ

ひとりぼっちの宇宙人(6) I.1-2

第I章 ダン=セブンの二重性 

第1節 ダンとセブンの同一性

1-2 ウルトラマンとは誰か

  光を継ぐもの

 同一型か別人型か。次に、『ウルトラマン80』以来16年ぶりの1996年、ウルトラマン生誕30周年の年に放映された『ウルトラマンティガ』に焦点を当てよう。『ウルトラマンティガ』において、ティガは普通の意味での宇宙人とは異なる(宇宙人なのかどうかは明らかにされていない)。彼は、古代の地球上に文明を築いた(現人類とは別の)人類を守護する巨人として存在した。その文明の謎の滅亡の後、巨人は石像となって眠っていたが、21世紀初頭、地球上に異変が起き、古代人はタイムカプセルから巨人復活の必要を訴える。

 GUTSの隊員ダイゴは巨人と合体できる特別なDNAを持っているという設定である。つまり、ハヤタがウルトラマンの命を授かって助かる『ウルトラマン』とは逆に、ティガの方がダイゴの命を授かって復活するのである。DNAを持ち出す辺り、1996年の制作たる『ティガ』の面目躍如といってよい。ところが、この設定は一見優れているようであっても、『ウルトラマン』とちょうど対称な設定であるということは、当然ながら今度は「ダイゴの悲劇」ならぬ「ティガの悲劇」が起こるのである。巨人=ティガの存在が宙に浮いてしまうのだ。いったいウルトラマンティガとは誰か。第1話「光を継ぐもの」で、「そんな巨人がいたのに、どうしてあんたたちの文明は滅んだんだ」というダイゴの問いに古代人ユザレは「巨人は人類の選択に干渉しない。なぜなら、彼らは《光》だから。でも、ダイゴ、あなたは光であり人なのです。」と答えるのだが、「人類の選択には干渉しない」ということは究極には巨人は「自分はこう行動する」という意志を持たないということに等しい。「人類の選択に関係する部分だけ意志が働かない」ということだから、あくまで部分的なものだという反論が起きそうだが、大状況的にも小状況的にも、ここまでは巨人自身の判断の及ぶ範囲、ここからは人類の選択すべき範囲、というふうに線が引けるわけではないから、「人間の生命を授かって活動する」とは究極には「人間の操作で動く」ロボットと変わらないことになりはしないか。つまりティガは誰でもない、存在しないということだ。特にシリーズ後半ではダイゴ=ティガであるかのように描かれるが、それも「ダイゴがティガになる」ということ以上ではなく、「ダンがセブンである」という同一型の『セブン』の描き方とは異なる。ところが一方、第44話「影を継ぐもの」でティガは、友だち怪獣ガーディの死を嘆き、ガーディを倒したイーヴィルティガに怒りを爆発させる。このときのティガはどう考えてもダイゴではなくティガ自身である。要するにティガは中間型なのだ。いや、ウルトラマンもこうした中間型=中途半端型の面を見せることは先に書いた通りである(メフィラスとハヤタの対話は、ちょうどティガとは逆に、ハヤタがウルトラマンの意志を持つ例であった)。別人型だとどうしてもこのような《アイデンティティ不明》の事態を免れないといえよう。