言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (2)
暗譜と暗譜主義 (2)
第1章
さて、暗譜─置譜に関する、2人の往年の巨匠によるインタビューへの回答も有名ですね。
(聞き手:暗譜で指揮なさらないのですか?)
「スコアを前に置いて、邪魔に思ったことは一度もありませんからね。」
(聞き手:カラヤンほどの若手指揮者がトリスタンを暗譜で指揮するのに、ワグナー演奏の大家であるマエストロほどのお方がどうしてスコアを見ながら指揮なさるのですか?)
「わしは(あいつと違って)楽譜が読めるからな。」
一方、師(→注)・小林研一郎は最新の著書『小林研一郎とオーケストラへ行こう』の中で、暗譜で指揮をする理由として、緊迫感のあるときやピアニッシモで集中している部分でスコアをめくると音楽が台無しになる、ということを挙げています。?そういう箇所ではめくらなければいいだけのことではないかと思うのですが…。また、次のようにも書いています。
───
なんにも動かないで目だけで楽員と音楽を確認しあっているときの、特殊な空気、空間、あうんの呼吸、そういったもので音楽が花開くようにしなければなりません。
───(小林 2006:42)
私には、指揮者とオーケストラが互いに行い進める《指揮と演奏の営み》の、その全貌からすれば、小林の言うこの「特殊な空気」や「あうんの呼吸」というものはそのほんの一面に過ぎない、という実感があるのです。なるほどそれらは重要ですが、そこだけをことさらに取り上げて本質であるかのように言うのは、少し違うと考えます。指揮と演奏の営みとて、もっと“ありふれた風”に記述されるべき部分が多くを占め、しかもそういう部分にも指揮と演奏のポイントや本質が見え隠れする、だからこそ面白い、ということが言えると思うのです。ところが直後を読むと驚きます。
───
ここでこんな風に指揮しようなどと格好をつけたら、音楽は生まれてきません。スコアをよく読み、行間に書かれている作曲家の思いをくみ取って、音楽に身をゆだねて、自然になすがままに手や身体を動かすのが一番です。
───(小林 2006:42)
「スコアをよく読」め、と小林は言っているのです。もちろんあたりまえのことかもしれませんが、「暗譜で振れ」の直後に「スコアを読め」と言われては、これが矛盾しないとすれば、やはり、「スコアをよく読み」「行間」を「くみ取って」いく作業はリアルタイムには行われない/行われるべきではない、ということなのでしょうか。ここが私の最も腑に落ちない点でもあります。論点は3つほどあろうかと。
1.一つのオーケストラ音楽とは、一人の人間が事前に頭に入れられるほどに、疎な内容であるのか。
2.頭に入ったとして、「入ったのだから本番は暗譜で振らないといけない」ことにどうしてなるのか。
3.オーケストラの楽員は必ず置譜である。
次回はこれらについて書いて行きます。
注:3日間の指揮法セミナーをわずか3回受講したに過ぎませんが、そこで私は確かに多くの示唆を受け、知見を得ました。最後に受講した年の最終日、講師/アシスタントの高石治氏・三河正典氏とも「きみたちはもう、経歴に“小林研一郎に師事”と書いてよい。しかし小林先生の名前を背負うとはどういうことか、よく自覚して活動していってほしい」という主旨のことを言っていました。受講生の集まる打ち上げパーティーの2次会の席上ではあれ、彼らのあいさつのときは、「つい」とか「いきおい」ではなく、真面目な発言を真面目に受け取る空気になったのをよく憶えています。
参考文献