音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (25)

 吹奏楽部顧問時代(1994─2009)の演奏会パンフレットより 2009年5月

 もう5~7年前になりますか、北海道女満別小林研一郎指揮法講座に3回連続で参加したことがあります。先生のお弟子さん数人を除き、受講生のほとんどがアマチュアでした。初参加の年、一際明快な指揮振りだった一人の受講生に注目、後に向こうも「冷静そうな普段と情熱的な指揮とのギャップが魅力」と私に注目してくれていたとわかり意気投合、親しくなれました。その後、私より約十年年少の彼がいわゆる「脱サラ」をして地元東京の音楽大学の指揮科に合格したときは、彼を見出した自分の眼が認められた気がして私もまた嬉しかったものです。今年の2月、彼が音大生となってからは初めて再会できました。アマチュアオーケストラのいくつかに招かれ、理想を忘れず希望を抱いて指揮活動をしているとのこと。また「あの講座はやはり高度でした。指揮科のレッスンは、より体系的継続的ではあれ、『言葉ではなく棒でいかに伝えるか』など、内容はあれとほぼ同じです」「(彼が次の本番で振る曲は私が最近本番で振った曲だとわかり)経験者としてまたアドヴァイスをよろしく」とも。関東のプロの彼と関西のノンプロの私は不毛なライバル関係には今後も陥らないだろうことは幸いでしたが、そもそも「プロとアマチュア」という分け方自体、極め深めるほどに無効に近く、普遍の芸術音楽の厳しさと愉しみだけが共通項として残ってくるのでしょう。

私と吹奏楽部の彼女ら彼らとの関係をみると、「プロとアマチュア」ではないにせよ「顧問と部員」「教師と生徒」「大人と子ども」「年長者と若者」などの動かし難い枠がまずあります。が、これらも極め深めれば高位の無限小であり、素の「指揮者と楽員」という関係に収束する、とも言えます。私と彼女ら彼らの間に(そしてまた聴き手との間に)音楽の感動が起こるとすればその関係を通じてしか起こりえないだろうからです。それだから僕も、理想を忘れず、「わかっているんだろう」「わかっている時もある」「わかっている人もいる」「わかる可能性を秘めている」という希望を抱いて「楽員」と向き合うことになります。