音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (20)

  吹奏楽部顧問時代(1994─2009)の演奏会パンフレットより 2008年4月

 演出家の竹内敏晴さんは、若い時に耳の病気がだんだんわるくなり、聞こえない状態になって、その後また聴力を取り戻す、という過程を辿ったそうです。その独自の芸術論・教育論を最近知り、惹かれました。

───── 突然、音楽がサァーッと流れこんできた。私のからだの中へ。鳴っていた、響いていた、そして流れ動いていた。ウツクシイ!音楽は微妙なメロディを幾重にも重ね、流れ、あふれてとどまることを知らない。私は音に浸され、ゆすられ、運び去られた。私は生まれてはじめて音楽の美しさを感じたのだった。 (『ことばが劈(ひら)かれるとき』 ちくま文庫、1988年、71頁)

───── つまり、踊るとか歌うとかいうことを、きちんと習って、リズムどおり、メロディーどおりに身振りでき、声が出せたからといって、それは表現でもなんでもないので、それを支えるというか、超えるというか、何かに、踊りを踊りとし、歌を歌とする、表現という行為のいちばん根源的な事柄がある。 (『教師のためのからだとことば考』 ちくま学芸文庫、1999年、169頁)

春の合宿で、「イギリス民謡組曲」の一節を、「サウスランパート・ストリートパレード」の各パートのアドリブ部分を、生徒たちが実にいきいきと奏で、彼女ら彼ら自身の内側からまさに「表現という行為」が噴き出て「流れ動いていた」感がありました。「イギリス民謡」の「吹き方」を決めたのも「サウスランパート」のアドリブを書いたのも私ですが、表現は指揮者の個性に還元されるのではありません。例えば、和声や旋律音の移行にしばしばクレッシェンドを伴う理由を「次の音に変わる…変わる…変わった!…という気持ちで今の音をのばして。気持ちというより、音の並びは初めから必然的にそうなっている」と私は生徒たちに説明します。音楽作品の普遍性です。それは、普遍性でありながら奏者・指揮者の主観を通じてしか現れません。表現とは「主観を通じて普遍に至ろう」とする営みなのです。彼女ら彼らの「音楽が劈かれるとき」にどうぞ立ち会い、またそれを見守って頂きますよう。