音楽の編み物

シューチョのブログ

わかる人、わかる時、わかる可能性 (4)

   吹奏楽部顧問時代(1994─2009)の演奏会パンフレットより 1997年(ウェブ初公開は2006年11月)

 本校の中学生たちにとって何より幸福なことの一つは、Y先生の伴奏で校歌を歌えることでしょう。各学期の始業式と終業式の度に、さらには入学式や卒業式で(このときは高校生も)、講堂のグランドピアノによる先生の伴奏が聴ける。先生のピアノは単に「ここをこう弾く」からよい、というだけではなく、校歌斉唱に至るまでの式典の微妙な雰囲気の違いを受けて、ゆったりと厳かであったり、溌剌と速めのテンポであったり、毎回変化するのです。私は、拙いながらもその前奏/伴奏に合わせようとして歌います。先生と私とのささやかなる交信です。

いったいどのくらいの人が、Y先生の芸術を感知しているのでしょうか。「わかる人はわずかだ」と私が言うのはおこがましいのですが、さりとて「誰にも何らかのものが伝わっている」というフォローも虚しく響きます。先生、「どうであれ、一旦ピアノを前にすれば、表現が湧き出るままに弾き進める他はない…」んですよね。「打てば響く」共鳴と感動があろうと、無理解にさらされようと。

私はよく、吹奏楽部を指揮するときの自分を、畏れながらも、式典で弾くY先生に重ね合せてしまいます。「部員たちが(私の音楽表現やその意図等を)どこまで“わかってくれている”のか」は私にはわからないままです。彼女らも私も、自分の今持つ音楽・芸術・教養から背伸びをすることはもちろん無理ですし、逆に不誠実にそれらを「低い所に合わせる」こともできません。「指揮者と楽員」として、お互いに正直に向き合うのみです。まして「“音楽を通じて”何かを得させるよう、クラブ活動という面から教育的な指導を施す」という意識は、私から最も遠い。貴い音楽芸術活動を、そのような「学校的価値観」のダシにするわけには絶対にいきません。

彼女らは楽団としては極めて優れた反応力を持ちます。私の振るように吹く/叩く。これはすばらしい。この点はプロのオーケストラさえ最も苦手とする所なのですから。つまりここには、「先生の言うとおりに」という受け身で従順な姿勢とは似て非なる積極的な応答があるのです。「だから“わかってくれている”んだ」と一方的に信じることはプレッシャーだろうからしませんが、「わかっているんだろう」「わかっている人もいる」「わかっている時もある」「わかる可能性を秘めている」という期待と希望を持てることが、私にとっての楽しみです。後は、私と演奏することが彼女らにとって楽しみであるように願い努めるだけです。