音楽の編み物

シューチョのブログ

渡植彦太郎『仕事が暮らしをこわす ─使用価値の崩壊─』(とのうえひこたろう、農文協人間選書、1986年)

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就職して2年目の頃、農文協人間選書の渡植彦太郎「経済社会学」三部作『仕事が暮らしをこわす』『技術が労働をこわす』『学問が民衆知をこわす』をセットで購入、このうち、唯一読了できたのが本書です。キャッチィな書名から、何が書かれているのかだいたい想像がつく感じ(笑)…と思いきや、文章はかなり難解で読みづらかった記憶があります。見ると、当時の書き込みに、まるで英文読解の構文分析のような記号を使った跡さえ見られます。「ブルックナー交響曲のような文章」というメモも(→注)。読点の打ち方一つをみても、渡植先生の文章作法が、当時私が手本とした本多勝一さんの作文技術などとはかなり異なるものだった、ということでしょう。

 

注:===朝比奈隆は次のように語っている。『[……]ブルックナーの音楽は口下手な人の話のようなもので、それが巧言令色になったり、雄弁になったりしたら、かえって魅力がなくなってしまう』。本当にその通りだと思う。===宇野功芳「彼岸の音楽」より(『レコード芸術』1982年11月号第一特集「アントン・ブルックナー」、195頁)。

 

当時の自分の線引き箇所から、3つだけ引用しておきます。

 

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仕事集団はもともと同じく人間の集団ではあるが、人間の作り出した集団である。それは仕事のための組織体である。その中において人間が生きるために作られてはいない。これに対して生活集団は自然発生的であるがゆえに、当初から人間がその中で生きる場所である。

===28、29頁===

 

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私が労働の創造性という発想を抱くに至った経緯についてはすでにほかの機会にしばしば述べているので、ここに繰り返すことを避けるが、要するに、マルクスの「経・哲手稿」における疎外を脱却した際の労働からヒントを得て、これをかねて所蔵していた古陶会寧焼を座右に日夜眺めていてそれが芸術品として制作された結果でないのに、素晴らしい美しさを秘めていることに結び付け、さらに、柳宗悦の民芸美論が凡庸な農民、工人の手になる日用品に、「無事の美」の存することを主張するのに出会って、そこに労働の生産物に創造性の存在を見出さないではいられなくなったのである。

===100頁===

 

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その手始めとして、まず、西欧的合理性を本格的に学び、それを日本的に考え直す努力を惜しまない必要がある。今日までのところ、言葉だけでなく、思考法そのものまで、翻訳で済ましていた感がある。

===156頁===

 

2つ目の引用について。11年前、柳宗悦の著書に感銘を受け、彼の民藝運動の音楽版のようなものを漠然とながらも目指して、私はトリカード・ムジーカを「始動」しました。つまり「柳に出会った」のはその2009年だと自覚していました。が、そのさらに16年前にこうしてすでに「芽があった」(?苦笑)とは…。すっかり忘却していて、何だか可笑しく、でもちょっと嬉しい。また、これで一つの文!ということも注目。ただ、前述の読みづらさも多少あれど、1899年生まれ・本書発売当時86〜87歳の著者が、その場で語るような、それを(おそらく手書きで)自ら口述筆記していくような文体で、その考え・主旨がゆっくりじっくりとよく伝わってくるように思います。