音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(14)

安冨歩

原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』

明石書店、2011年)

 

 原発問題はもちろん、現代日本社会の問題に向き合うための、リテラシー的必携文献だと思います。

 

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 原子力村がショッカーである以上、小出さんは仮面ライダーです。それはじつに構造的に一致しています。

────(86頁)

 

いやあ、まことにその通り。これ以上引用しなくても、「仮面ライダー小出裕章」という比喩の見事な妥当性について理解するのに、小出さんと仮面ライダーの両者についてごく平均的な知見さえあれば十分でしょう。本書の同じ章で批判されている、香山リカ氏による“小出裕章=「ネオむぎ茶」”説の珍妙さ/無礼さとの対比も、実にくっきりと際立ちます。

 

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私が気になるのは、「私自身は脱原発の立場」にある、と香山氏が言っている点です。これはよく使われる言い回しですが、「脱原発」というのは、そもそも「立場」なのでしょうか。「脱原発」と言っている人にはいろいろな考えの人がいます。私の考えと、小出さんの考えは違うでしょうし、香山氏とも全く違っています。それゆえ、「立場=観点」と解釈するなら、それぞれ立場は違うわけです。しかしそれでも、

 

 「原発をどうすべきだと考えますか?」

 

と聞かれれば、「脱原発」と同じ返事をする、ということなのです。ですから、「脱原発」は「立場」ではないのです。

────(100頁)

 

「是々非々」などという字句を出さない、明解な口語による説明にはほんとうに溜飲が下がりました。脱原発を言うために、脱原発「派」「になる」ことは強要されないはずです。まずはただ単に、「脱原発」という意見を持つか否か、ということがあるのみです。

 

さて、「東大話法」の規則8は以下の通りです。

 

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規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

────(24頁)

 

「○○論者」「××論者」と規定して、○○論や××論の平均的代表的な「説」を勝手に作り上げる。その「説」は往々にして不十分でしばしば誤認さえも含み、それらの真の平均や代表とは到底言えないこともあったりします。自分で勝手にねじ曲げ貶めておいたそのような「説」を、自分で論破して自己陶酔するのです。こういうスタイルは、何も(東大の)学者にだけ見られる現象ではありませんね。例えば「サヨク系」などというときの「──系」という語は、その用例の大多数において「(非学者としての)一般」の人間が東大話法規則8に従うときの常套句となっていると思います。「──系」というような曖昧な修飾句は学者はたぶん好まない。が、「一般」には実によく使われる。学者的な「──論者」を「一般」に馴染むように薄めたのが「──系」といえるのではないでしょうか。東大話法の蔓延が学者の世界に留まらないことの証左であると思います。本書の副題となっている「傍観者の論理・欺瞞の言語」が、今日、(他言語については未知ですが、少なくとも)日本語が用いられるあらゆる議論や文章の場面の実に多くの部分において席巻しているのは間違いありません。

 

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 もちろん、東大にも、こういう文化を嫌悪する人はたくさんいます。しかしなかには、こういう文化への嫌悪を露わにしている人が、じつはその使徒である、というケースがあります。[……]自分と同じ特性を持った人を、激しく非難する、という挙に出ます。この手口に私も何度も騙されました。「あいつはいい加減だ」とかいって、身近な人を非難するので、「この人はさぞかし、いい加減じゃないのだろう」と思っていると、その本人がものすごくいい加減だ、というようなパターンです。これはPさんがQ教授について指摘したことでもあります。

────(115頁)

 

私も、おそらく安冨さんほどの頻度ではないものの、幾度か、まさに最も信頼していた存在に同様の手口で騙された経験があります。おかしなこと・妙なことが身にふりかかり続くも、関わっている当時はわからず過ごし、ほとぼりがさめ、ずいぶん後になって振り返って、実は最も身近な、味方と思っていた人間がハラスメントの加害者だったことにふと気づいて愕然とする…。

 

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 それに、東大に禄を食んでいるということは、私自身もその使徒なのかもしれません。読者の皆さんには、私が実はそういう奴ではないか、と疑っていただきながら、注意深く、鵜呑みにせず、本書をお読みいただきたく思います。

────(115頁)

 

何より読者であるこの私自身も、いくら気をつけてもつけ過ぎということはないのでしょう。この「私もそう(なる)かもしれない」という気持ち・考えの出方こそが、東大話法に呑まれないための一歩、「内なる良心の声」となりましょう。上記引用のQ教授などは「東大話法使い」として自覚的な輩なのでしょうが、「私は違う」と思い込む「一般」的な感覚は、自らが東大話法に操られ、したがってまたそれを操る側にもなってしまい、さらにそのことに無自覚なまま…ということがありえ、非常に危険だということですね。