音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(13)

小出裕章原発はいらない』(幻冬舎ルネッサンス新書、2011年)

 

 小出さんの本はたくさん出ていますが、現時点で、共著でないものからどれか一冊推すとすれば、私は本書を選びます。

 

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 原発建設は、いわば国家の至上命題であり、同時に電力会社も利益を増やすという仕組みができていましたから、それに反対するにはそれなりの覚悟が必要です。

 たとえば、私と一緒に女川原発に反対していた原子核工学科の二歳年上の友人は、「生活を言い訳にして、学者の地位にしがみつきたくない」と言って大学院を退学し、「捨てるものがなくなればいい」と鳶職に転進して反原発の志を貫き、今では運動の中心人物になっています。

 私は彼とは別の道を選びました。原発を推進するアカデミズムの中で、原発に反対し、原発をやめさせるための研究を続ける者も必要だと考えたからです。彼とは、「行く道は違っても、生活を言い訳にするような行動はとらない」と約束し、今日に至っています。心が萎えそうになった時、私はこの四〇年近く昔の約束に励まされてきました。

────(21頁)

 

 「生活のため」という言い回しは、すべきでないと自分でも(薄々)わかっていることを仕方なくする際の自己肯定の切り札として、もっぱら用いられるものだと思い込んでいました。上記のような用例を少なくとも私は他に知りません。言葉は、その力を発揮するように用いてこそ価値を持ち、感動を伴って伝わるものであるのでしょう。翻って、自分はどうか。大きな行動はとれていません。それは明らかで、我が臆病を恥じるばかりです。が、よくよく振り返ると、小さな実践は積んでこれてはいるかな、とも思うのです。いつであれどこであれ、これまでの生のさまざまな現場において、自分が重要と考える点においては、テイラーのいう authenticity=〈ほんもの〉という理想のままに立ち振る舞ってきたのではないか、と。本書読後のこれからは、ささやか過ぎますが、「生活(のため)という語句を、陳腐な方の用例では使わないようにしてしゃべり/書き、かつ、それを含む自らの言動が嘘にならないように行為する」ことはすぐにでもできる実践でしょう。小出さんのような人を、見習えるところから見習う、とは例えばこういうことなのではないかと思います。甘いでしょうか。いや、厳しいでしょうか。