音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い (16)

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン

『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』

田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹…訳 岩波書店 2000年)

まだ読み終えてはいませんが、いやはや、ラカンやクリスデヴァやイリガライの著書にこのような部分があったとは──と、原著未読を吐露していることになりますが(頭掻)。日本語版は2000年の出版で、著者の一人のアラン・ソーカルがパロディー論文を投稿したところ、それが審査を通って掲載される、という「ソーカル事件」というのも話題になったそうでして、遅ればせながら知りました。

科学、特に数学や物理学を、これらを専門にしない人が、平気で「不確実・不誠実」に引用する例は枚挙に暇がないと思われます。当ブログの「音楽テーゼ」の一部もその類い?まあ、大きな否定はしかねますが、僕がそこで挙げたアナロジーはしかし、上記の人たちのものに比べればはるかに筋が通っているとは断言しておきます。理工系の専門職についておられるコメンテイターたちの保証付きですし。つまり、あくまでアナロジーではあれ、それを数学物理学の該当知識のある人たちがまず、読んで一応納得できること、これが最低条件でしょう。それでなければアナロジーを行う意味がなくなります。アナロジーというのは、それをすることによって、本題とアナロジーを両方わかる人が「なかなかうまいこと言うじゃないか」と思うか、本題がわからなかった人がアナロジーによって「なるほどそんなようなものか」と腑に落ちるようなものでなければね。付箋し忘れたのですが、本書にも同様のことが書かれていたと記憶します。──ただ、僕の「音楽テーゼ」のアナロジーに関して言えば、一般的平均的にみてたぶんアナロジーの方がかえって敷居が高く自己満足的で、上の「うまいこと言う」条件は満たしても「なるほどそんなようなものか」条件は満たさないでしょうね。──ところが、ラカンクリステヴァの用いる「数学」は、該当の(と思しき)数学を彼らよりもよく知る者にとって、まさに意味不明なのです。

本書の引用部分だけを見る限り、彼らが記述している「数学」の元の(と思しき)数学的知識というのは、大学教養程度か理工系学部程度、あるいは最高でも数学科学部卒程度(つまり僕程度?)なら、「ああ、あれのことを言っているのか」と容易にわかる程度の「基礎」であり、けっして難解深遠な概念ではありません。当人たちは難解深遠を装うために用いているだろうにもかかわらず、です。一例を挙げると、「コンパクト空間」というのがありますが、数学科の3年生なら常識的な知識です。「コンパクト空間」とは確かに通常の「コンパクト」という語によって喚起できるような概念であり、だからこそそう命名されているのですが、数学的な定義はもちろん厳密なもので、イメージだけで分かった気になれるような「文学的」なものではありません。本書に引用されたラカンの文章を読むと、「コンパクト空間とは何か」ということについて、彼の知識・理解が、せいぜい平均的な数学科3年生未満であることは明らかなようです。言わずもがなですが、「数学の知識・理解が、せいぜい平均的な数学科3年生未満」であること自体は、まったく恥でも何でもなく、何ら問題はありません。問題なのは、やはり「未満」な読者を相手に、著者として「知ったかぶる」ことです。そもそも「コンパクト」についてなど、数学を専門としない人間が、無理して知ったかぶらなくていいはずです。

本書は、告発の方に重点が置かれていますが、僕には「なぜこうなるのか」ということにも興味があります。すなわち、いわゆる「文系研究者」は、ときに、自分の無知を晒すだけなのに、どうしてまた自然科学を誤って用いるのか、ということです。自分で自分を貶めているわけです。それだけ自然科学の成果・知識は権威づけられているのでしょうか。「数学的」な記述をすれば難解深遠なことが述べられているかのように装うことができるからでしょうか。それこそ自分が「数学の権威」に依っていることになりますね。もしもこれが、「理系科目ができなかった人たちの嫉妬」が発端であるとするなら、当人にとっても読者にとっても誰にとっても、これほど不毛なことはないでしょう。

ただし、僕は、本書で批判されている著者たちからも、もしも得るものがあるなら得ていきたいと素直に考えています。

本書の

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たとえそれが些細な一部分であろうとも、知的不誠実(あるいは、極端な能力不足)の兆候が見いだされれば、その人の作品の他の部分もより批判的に読んでみようと考えるのが自然ではないか。

────10頁

には同感ですが、同時に、そういう「不誠実・能力不足」を差し引いても、その思考や主張に注目に値すべき点があるのならば、読者としてはそれはそれとして受け取ってもいきたい。まあ、けっきょくは是々非々問題であり、程度問題であるのですが…。

以前、週刊金曜日に載ったJR西日本の尼崎の事故についての記事の中に、阪急のレール幅が世界標準軌(1435mm)であることに明らかに無知な記述があったのを見て、僕は「東京の人間はわかっちょらんなあ。ここらへんの大手私鉄は南海(JRと同じ1067mm)以外はぜんぶ標準軌やっちゅうねん。そんな基本も調べへんままよう記事が書けるなあ」とは思いつつも、それだけに留まりました。が、後日聞いたのですが、僕の父は、編集部にその記事の訂正を促すメールを、阪急京都線の車両が東海道新幹線の線路を借りて走った(逆だったかな?)ことがある事実などの詳説を添えて送ったそうです。「たとえ細かい点であっても、間違いを放っておけば、記事全体の信頼性を落とすやろうが」とコメント。さすが、ソーカルと同じ素粒子論を専門とする物理学者。

もう一つ考えたことがあります。

自然科学の体系でさえ時代によって異なる、といういわゆる相対主義について。有名なクーン『科学革命の構造』を最も「過激に解釈」すると極端な相対主義に向かう、と本書も指摘しています。「ニュートン力学相対性理論によって否定された」などという通俗的短絡的誤解が生まれる素地ですね。で、ここで僕の「専門」の音楽演奏の表現論に返ってきてみると、学問の世界において(さえ?)相対主義的な思考が蔓延しつつある/あったのに、本来、相対主義的であるはずの/であってよい「演奏表現の世界」においては「正統性」に固執する人々が多数いる、ということが、対比させてみると、実に転倒的現象だなあと思うわけです。