音楽の編み物

シューチョのブログ

鶴見俊輔『限界芸術論』

言の葉と音の符、楽の譜は文の森(41) 2009年8月

 鳥取の「こぶし館」に「島田文庫」というのがあります。その書棚に鶴見俊輔『限界芸術論』の初版第1刷を見つけました。

genkai

有名な本なので存在と名前は知っていました。おそらく、ちくま学芸文庫版が出たときにでも表紙を見たことがあったのでしょう。本書をなぜ今までこの僕が読んでいなかったのか、まったく不思議なほどです。本とも「出逢い」があると言われますがその通りで、2009年夏のこの時に、鳥取こぶし館島田文庫というその場所で、というところは大きかったと思います。そうでなく、もしも書店平積み時にパラパラやっていたら、単にそのまま見過ごしたか、類似の主張にかえって反発したかのどちらかだったかもしれません。あるいは既にパラパラやったのかもしれませんが記憶にはまったく残っていませんでした。島田文庫の書棚の最下段右端から、本書の背表紙が「これこそ今のおまえが読むべき書だ」と訴えんばかりに目に入って来て、促されるように手に取ったのです。

──── 芸術とは、たのしい記号といってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。 [……] 結論から先に言えば、美的経験とは、もっとも広くとれば、直接価値的経験(それじしんにおいて価値のある経験)とおなじひろがりをもつものと考えられる。 [……] 一本のベルトのように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句読点をうつようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成させるものが、美的経験である。 ──冒頭「一 限界芸術の理念」(ちくま学芸文庫版、1999年、10・11頁)より 太字強調は引用者による──

芸術が「直接価値的経験」であることは僕もかねがねいろいろな所で述べてきました。当ブログでは「わかる人、わかる時、わかる可能性」の中に頻出します。

──── 本来、芸術・音楽の営みとは、それ自体が目的で営まれるという以外の在り方はありえない。(1996年)

「“音楽を通じて”何かを得させるよう、クラブ活動という面から教育的な指導を施す」という意識は、私から最も遠い。貴い音楽芸術活動を、そのような「学校的価値観」のダシにするわけには絶対にいきません。(1997年)

繰り返しますが、目標など無くともただ楽しく音楽を享受できれば、それでいいはずです。(2000年)

芸術(音楽)活動の貴さ=価値はそれ自体の中に既に含まれています。(2004年) ──「わかる人、わかる時、わかる可能性」より──

僕は多読ではないので自分の他には本書からしか同種の内容を得ていませんが、この主張は何も僕や鶴見の専売特許ではなく、普遍的な主張なのでしょう。ただそれでも、他ならぬ僕の「直接価値的経験」としての本書との出逢いについて、その喜びについて、ここでは紹介しているということですね。

さらには、「句読点」への喩えも呼応します。

──── しかし、注もフリガナも、さらに見出しや段落分けさえも、それらがなくとも文章はまだ文章として成り立ちえる。それらよりもなくてはならないものは、句読点である。平安文学の原典には句読点が打たれていないと聞く。しかしそれは句読点が「無い」のではなく、「句読的な区切りは確かにあるが、書かれていない」だけであることは明白だ。楽譜のテクストも平安文学の原典と同じく、一般に句読点は打たれていない。楽譜が文章と異なるのは、句読点(句読的区切り)の位置も読譜側=指揮者・演奏家に多く委ねられている点であろう。しかし、句読点を打たなければ(句読的区切りを理解しなければ)その文章が何を言いたいか、もはや判別できなくなる。 ──音楽テーゼ集(2)(「楽譜とはテクストである。」)より──

上記引用では明言していませんが、僕にとって音楽・楽譜において「句読点をうつ」ことの中には音楽用語としての「アーティキュレーション」が含まれます。「アーティキュレート」と動詞化させ、行為として捉えています。

鳥取から帰ってすぐに、ちくま学芸文庫版を購入。今、じっくりと読んでいるところです。