音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い(11)

2007年12月

  渡辺裕/増田聡ほか『クラシック音楽政治学』(2005年、青弓社

7人の著者による、「クラシック音楽」を社会学的に扱った論文集。つまり音楽の《内容》ではなくその《周縁》を論じています。

ここで採り上げるのは増田聡担当の第2章《「クラシック」によるポピュラー音楽の構造支配》(以下「本章」)です。冒頭「はじめに」の節では、商業的なポピュラーが蔓延しているが、といって「クラシックはポピュラーより質的に優れている」などという主張はいまどき稀だろう、と言います。クラシックとて商業的だがあまりにも売れないのでそう思われにくいにすぎぬ、とも。ここまでは、「それがどうした」とも思うものの、状況把握・認識として大きな間違いはないでしょう。しかし

── さまざまなポピュラー音楽のなかには、その売り上げや人気とはさほど関係なく、優れたものもあればつまらないものもある。クラシック音楽も同様であり、両者に価値の上下はないとするのが常識的な考えなのではないだろうか。 ──(50頁)

という主張には、見過ごせないすり替えが含まれます。第1文から第2文の「同様であり」まではいいのですが、そのことを以て「ポピュラー」と「クラシック」という「両者」の「価値の上下」が「ない」とどうして帰結できるのか。できませんよね(注1)。「ポピュラー」にも「クラシック」にも、それぞれその中において、優れたものもあればつまらないものもあるという「価値の上下」の関係が存在する──それだけのことです(注2)。まさにそれだけだというところにこそ、こういう主張の意義があるのでしょう。ところが、すぐ次にそれを「クラシック=上/ポピュラー=下」という関係にしてしまう。《「両者」の中にともにみられる関係》すなわち《「両者」における類似》を、自ら《「両者」同士の関係》に変更してしまうのです(注3)。

増田はこのように「最近では一般に、両者に価値の上下はないと考えられている」とまずしておいてから、その直後に、本当にそうか?、と問い、この「はじめに」の節を、「むしろ、音楽としての『クラシック音楽』が衰退することと反比例するかのように、その影響力がほかの音楽にも広がっているのではないか、というのが、本章で述べようとする主張である」と結ぶのです。「クラシック」が優で「ポピュラー」が劣という価値観について、増田は、それが未だ根強くあるとした上で、それを批判したいのだろう、とわかります。表題からもそれは見て取れます。しかし、まさに「クラシック」の中に(も「ポピュラー」の中にも)優も劣もあるという認識がありながら、それらを「クラシック」として一括りにするという論法がいかに粗雑であるかということに、どうして考え至らないのでしょうか。

こういった「社会学的」な研究においてよく見かけるのですが、「研究対象の外から、その周縁を論じる」スタイルを採るために、概念の捉え方=抽象化の仕方がえてして粗雑であったり的外れであったりします。社会学の入門書によく「常識に捕われることなく物事を見つめよう」などとありますが、社会学(的研究)の文章ではしばしば、「常識」というものから、自分の議論に都合のよい部分を抽出したり、かってに組み替えたりしているような場合があります。しかもそれらは、全くありもしない「常識」を捏造するわけではなく、「そりゃあそういうのも常識としてあるといえばあるが…」という線でまとめられるので、読む側としても何となく言いくるめられます。そこがずるい。

と、いささか話が大枠に行き過ぎたので、少し具体的に言及することにします。

本章の主題の一つとして採り上げられているのは、作曲家の佐藤真が、自作の「大地賛頌」について同一性保持権を侵害されたとして、同曲を「カヴァー」したポップ・ジャズバンドPE'Zを訴えた「事件」です。一通り事実が紹介された後、

── 「楽譜がそのまま確定された作品を指し示す」ような作品観念と、ジャズの「楽譜と演奏の間の差異が創造性の指標となる」ような作品観念の対立である。 ──(72頁)

と述べ、前者の作品観念を「クラシック言説」の一つとします。佐藤真を「クラシックの作曲家」としていること、「大地賛頌」(の原曲)を(どうやら)「クラシック」に分類していること、これらまではひとまず認めることにします。しかし、この「楽譜が作品を確定するような作品観念」とはあくまで「佐藤真の言説」のまとめであって「クラシック」一般の「言説」のまとめではないでしょう。「クラシック作曲家」の中には佐藤と同様の考えの人もいれば、それと対立する人も、“第3の立場”的な人も、一定数いるでしょう。少なくとも佐藤とは異なる考えの「クラシック」愛好家がここに一人いますし、それ以上いることも知っています。それに、僕はこの一件を知らなかったので、本書で読んで、いくぶん可笑しかったのです。モンティ作曲の「チャールダーシュ」の伴奏を、即興的に大改造し、共演したVn独奏の天満敦子をも微苦笑させたほど自由奔放に弾いてのけたあの佐藤が、自分の作品についてはこんなことを言っていたのか、と。

話を戻すと、増田自身の作品観念?は次の通りのようです。

─── 図式的に述べるならば、楽譜─演奏─録音の過程のなかで、楽譜と演奏のあいだに差異を持ち込むのがジャズであり、演奏と録音のあいだに差異をもちこむのがロックであり、録音と録音の間に差異をもちこむのが[…]クラブ・ミュージックである、[…] ───(73頁)

粗雑ですよね。一つの作品における楽譜の多様性(版の問題等)、一つの楽譜に対する演奏の多様性(同曲異演の個性)、一つの演奏の録音(再生)の多様性(レコーディングとオーディオの文化と技術)。これらこそが繊細かつ重要な問題群でしょう。ここでもやはり、周縁をなでるだけで中身に行かない。ところが、中身に行こうとすると「それこそが自らを高尚とするクラシック的問題意識」と増田にたしなめられるのでしょうね。

もう1点。「ジャズは自由」「クラシックは不自由」という捉え方もよくありますね。「ジャズは即興が主で、クラシックは楽譜にしばられているから」と。──これは、本章の中にそういう記述があるわけではないので、以降、本章への直接の批評・批判ではなくなってしまうことはお断りしておきます。──しかし、僕はいつも思うのです(注4)。「ジャズ」のインプロヴィゼーションにおいて唯一のルールは「テンポだけは変えない」ということだ、と何かで読んだ記憶がありますが、僕から見れば、これほど「不自由」なことはない。「ジャズ」には、大局的な曲想転換のためのテンポ変化はあっても、アゴーギク的な“テンポの揺れ”はなく、必ずドラムスの刻む一定のビートに支配されている。「ジャズ」に限らず、「ポピュラー」にも、“テンポの揺れ”というのはめったにない。「クラシック」ではまさに表現の一中枢となるのがこの「テンポの局所的微小変化」であり、これこそは、多様なクラシック演奏の歴史が連綿と続いてきた大きな理由の一つであるといえます。これと関連して、「ジャズ」や「ポピュラー」では「リズムのパターン化・セクション化とリズムセクションによるテンポの特権化」が必然的に起こります。楽譜という抽象レベルでの「支配」が無い?ために、かえって、奏者の出す具体音の中に権力関係が生じる、とでも言いますか…。また、作品の原初的段階(作曲の段階)ですでに、ジャンルとしての構造的要求として「リズム(ビート)の明示義務」のようなものが生じています。これは、実にたいへんな自己束縛的現象でしょう。

 


注1:言わずもがなですが、「ある」とも結論できません。ともかく論理がつながらないということです。

注2:ここで、「そもそも音楽をジャンルで分けること自体がおかしい」と言いたくなる人もいるでしょうが、それは性急でしょう。そのような主張には、本章の議論とコインの表裏をなす安直さ・危うさが含まれ得ると僕は考えます。「何がクラシックで何がポピュラーか」と類別のグレー性を指摘したくもなりましょうが、ジャンルの問題という「風車」には、そういうツッコミは「ドン・キホーテ」となるでしょう。

注3:まさか、この書き方で、「両者」の「類似」および「関係」の2つを単に並列して述べただけ、ということはないでしょう。とてもそうは読めません。

注4:これも、「そう言われるならばあえて」という気持ちで返してみたまででして…。尺度が「高級/低級」であれ「自由/不自由」であれ、ジャンル間の優劣をあれこれ安直に言うことがそもそも不毛だということです。ただ、注2とも関連するのでしょうが、「安直に」ではなく、繊細の深みに分け入る覚悟で論ずるならば、意義が出るかもしれない、という留保は付けておきます。