音楽の編み物

シューチョのブログ

音楽の情熱的本質

言の葉と音の符、楽の譜は文の森(47) 2010年6月

『美の中の対称性 数学からみる自然と芸術』(新井朝雄 日本評論社 2009年)の第6章「音楽の基礎数理と対称性」冒頭で、著者は、ライプニッツの「音楽は魂が自ら行うひそかな数学的実践である」との言葉を引き、「音楽の理的本質,すなわち,音楽が根源的に数学の理法に支えられていることを詩的に見事に表現している」と述べます。

確かに、音楽と数理の密接な関連はありましょう。本書もそうですが、音階の構造やリズムの仕組みについて、よく採り上げられます。

しかし、音楽の「本質」とは何でしょうか。例えば、今日トスカニーニの「アイーダ」や「トリスタン」を指揮する映像を見る機会があったのですが、彼の音楽がまぎれもない本物の音楽であること、そのことと、「音楽と数理の関連」は関連するのでしょうか。

いえ、数学者ならずとも数学を生業としている者からすれば、音楽は「理屈じゃない」「心で感じるものだ」という、よくあるだろう返答をしたいのではありません。

優れた指揮者の映像を見るとき、必ず感受されるあの「パッション=情熱」。それはまた、無能な指揮者・指揮者でない指揮者の映像からは全く感受できないものです。これこそが、音楽を音楽として成り立たせているもの=根源ではないのでしょうか。「音楽にはもちろん、情熱も欠かせない」などと表現してしまうとかえって付加的なものに貶められてしまいます。というのも、音楽には「リズムや音階が不可欠」という表現は、どこかおかしく、そうは言わないでしょう。不可欠も何も、通常、それらを備えたものが音楽だからです。つまり、パッションもそういうものではないか、とここでは指摘したいのです。

音楽には情熱と数理が同居・融合している。しかし、音楽を「論じる」段になると、どちらかに偏ってしまう。評論・批評に数理の面はないに等しく、学問・研究に情熱の面は影を潜めます。

かくいう僕も、どうもこの2つが自分の中でしっくりとはリンクできていません。両方があると確信できる所までは来ているのですが、それらの相互の関連がまだ見えない感じです。