音楽の編み物

シューチョのブログ

クリ拾い(38)

  読んでから/見てから書く、書くなら読む/見る (1)

 当ブログのコーナー、「クリ拾い」「ハードカバーと白熱電球」では、一貫して、「視聴したもの」「読んだもの」について何か書ければ書く、という「まじめな」スタンスで通してきたつもりです。「内容紹介」における「所詮“拾い読み”だから内容が不十分でも許してね」という趣旨の言い訳(笑)も、実は、今書いた本来の「まじめさ」について裏から述べたものです。すなわち、どうあれ、自分の読み込みの程度に相応しい形で書く。精読読破したものについてときに「すき鋏」を入れて軽く書くことはあるとしても、その反対の、たいして読んでもいないものについて完読したふりをして「水増し」して書くようなことはしない、ということです。

で、知ろうとする素人=シューチョ/寡読な読書家=マァイケル・ヨンデルでさえ、上記のような一定の「良識の枷」を自らに課しているのに、「玄人」の人たちなら、もうちょっとちゃんと考えて書いてほしいなあ、TV番組を批評するならそれを見てから、本を批判するならそれを読んでから、してよねえ…と思うことがしばしばあります。今回と次回で例を1つずつ挙げ、こういったささやかな嘆きの声を届けてみようかと思います。

 さて、第一の例です。イダヒロユキさん(「わかる人、わかる時、わかる可能性(2003年)」も参照)が、「ハードカバーと白熱電球(14)」でも紹介した『原発危機と「東大話法」』(以下「本書」と略記)について書かれていました。以下に引用し、続いて、僕の疑問点・批判点を書きます。

──引用ここから──

ソウル・ヨガ(イダヒロユキ)2012_04_09「学者のインチキ」

毎日新聞』に面白い特集記事があった。大阪では、毎日新聞 4月3日夕刊。

ここでは『東大話法』と言っているが、それは、本を売るためのテクニックで、そのこと自体が小賢しい。

で、以下の記事で言っていることは、東大かどうかなど関係なく、多くの学者・研究者に当てはまる。所詮その程度というのがほとんどだから。

ところで安富さんは、学者のこういう特性を批判しているが(その多くは同意見だが)、研究者としてエリートで、高収入であることとか、東大にいるという権威主義の問題とか、特に東大学生の問題というのにどう向かっているのか。そこが問われるだろう。

原発事故後に気づいたように言っているが、原発事故以前から明白だったじゃないか。

ということで、まあ、深いことを言っているわけじゃない。面白くまとめた、という程度の話。

──引用ここまで──

…本文ではこの後に毎日新聞の当該記事の引用が続きますが、ここでは割愛します。(詳細は実際のページに行ってみて下さい)。…

(1) まず本書の書名について。この書名は、東大を一つの象徴として捉え、東大の学者が最もこの種の話法に通じている点、また実際に原発問題における“東大話法使い”はほとんどが東大の学者・卒業者だという事実を踏まえた上で付けられた書名であり、売るためのテクニック(だけ)ではないのです。あるいは、テクニック駆使の面を認めたとしても、そういう商売上のテクニックはもともと多かれ少なかれ「小賢しい」面を持つのであり、わざわざ指摘するまでもないことです。そうでありつつも、ただそれだけに留まるかどうかはけっきょく内容によって決まるのであって、そこが何より重要な点でしょう。それなのに、読まずにただ書名だけを見て「書名が小賢しい」などと言うのは、傲慢かつ無意味です。読んでみたらその内容が薄かった、などというときに初めて「書名が小賢しい、というだけに終わっている」と批判できるわけです。「中身を読まない」批判は、必然的にそれ自体が「中身のない」批判となります。

(2) 「東大かどうかなど関係なく、多くの学者・研究者に当てはまる」ということは、まさに本書が指摘しているところのことです。

(3) 本書で東大話法話者の「傍観者の論理(本書副題)」を批判する安冨さんであってみれば、当然ながらちゃんと、当の本書において自らは傍観者にはならずに、自分自身が東大教授であることについてきちんと自覚的に言及しています。

(4) 現在のこの社会の最重要問題の一つである原発危機について、それと東大話法との関連を指摘し詳細に検討すること、これこそがまさに本書の大きな意義の一つです。それを「事故以前から明白だったじゃないか」などと知ったかぶって指摘するのは、ピント外れもはなはだしい。本書は、そうと知っていたイダさんのための本ではなく、そうとは知らなかった人々あるいは疑い始めた人々に、事故以後の今こそ知らしめんとする書物なのです。

さて、僕の一番の疑問は

本書『原発危機と「東大話法」』自体は未読のまま、それに関する一新聞記事だけに対する第一印象だけで、どうして上記引用のように書いてしまえるのか

という点です。少なくとも(2)と(3)についていえば、読めばそこ(→注1)に書いてあるというだけのことですから、意見の相違以前に誰が読んでも共通の了解事項となるはずです。その上で、つまり、本書のそれらの部分を読んだ上で、その言及の質や量や程度について批判者自身が実際に「問う」てくるなら、まともな批判といえるでしょう。すなわち、「そこが問われるだろう」などとエラそうに書くのでなく、批判するなら、自分で読んで自分で問え、ということです。

それにしても、本書自体はおそらく一行も読まないまま、「ということで、まあ、深いことを言っているわけじゃない。面白くまとめた、という程度の話。」と締めるのは、かなりひどいですね。これでは、イダさんの発言こそ、東大話法規則の

規則2:自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。

規則8:自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。

辺りに該当するのではないか、と「悪意の曲解」で返したくなります(今書いた通り、これは「悪意の曲解」で、そこまでではないとは思っていますが…)。

あるいは、すべては、本書自体に向けてではなく、この新聞記事の文章に向けて直接書いたに過ぎない、ということなのでしょうか。しかし、それならよけいにおかしい。当記事自体が「面白くまとめた、という程度」の仕上がりであっても、紹介記事たるもの、別にそれでよく、むしろ十分その役目を果たしているといえ、「…という程度の話」などとマイナス表現を伴って評されるような事態ではぜんぜんありませんよね。

イダさんは他の批判対象、例えば橋下徹大阪市長などについては、かなり細かなことも、ちゃんとまず彼自身の発言を拾って、それに対して批判しています。が、「東大話法」については、なぜか粗雑に書いてしまっています。イダさんにとって安富さん(の「東大話法」論)は完全に対立する相手ではなく、イダさん自身も書いているように「その多くは同意見」であるそうです。ならば、もっと肯定的に採り上げてもいいものを、かえって鼻についたということでしょうか。

注1…さしあたり例えば191〜193頁の第4章第1節〈「東大話法」を見抜くことの意味〉に記述があります。他にもあったかどうか、本書全体の再検索はしていません(頭掻)。