音楽の編み物

シューチョのブログ

言の葉と音の符、楽の譜は文の森 (32)

 京都シンフォニカによる歌劇『蝶々夫人』を観ました。演出・芝居があるものの、オーケストラはピットではなく舞台上に配置、歌手たちは、その前後周辺および弦合奏と管打楽器の間に設けられたアーチ状の通路を行き来しながら芝居と歌を見せる、というものでした。

平均的な日本の音楽ファンと違わず、ずっと食わず嫌いで来たオペラでしたが、松村禎三『沈黙』で鑑賞に目覚めました。それでも生はまだ『沈黙』を2回と『コジ・ファン・トゥッテ』1回のみ。今回の『蝶々夫人』が4回めのオペラ実演鑑賞でした。

そういう僕のような者には、オーケストラを演奏会と同様に目と耳で鑑賞できるこのスタイルがちょうどよく、なかなかたのしめました。それと、こんなにオーボエがおいしい曲だとは知りませんでした。オーボエが、大事な場面にさしかかり、そう!ここぞ、というところで、かなめをにぎる。

プッチーニの音楽というのはかなりの大衆性を持っているような…。あまり歴史を知らずに書いていますが、まあ、ブルックナー交響曲などとは対極に位置するものだろうことは確かですね。型がはっきりしていて、ここで静まって、次にここでこう盛り上がって、…というお定まりの流れがあるように聞こえます。演奏も、表現の型が決まっていて、その枠の中でいかにうまく仕上げるか、というところに力点が置かれているのでしょう。流行歌のサビのようなもの、と言ってしまうと矮小化し過ぎかもしれませんが。

しかし、まさか、だからつまらない・嫌いだ、というような単純なことではありません。僕が流行歌に一家言持っていることは当ブログの読者ならばご存知かと。何であれ質の高いもの=オモロイものを求めるのみで、『蝶々夫人』は間違いなくオモロイものの一つでしょうし、機会に恵まれればやってみたいですねえ。問題は、こういうオペラを「大衆的」だという場面があるとして、それはたいてい、まさにブルックナーなどとの比較の意味でのみ言われるという点です。この点が、むしろ不満だと言いたいのです。『蝶々夫人』のような本当に大衆的なもの(大衆的な“ほんもの”)はそれもまたこのようにオモロイはず。が、現代現在において大衆的なものは、まさに面白くないものが横行していて、そういうものに比べ、プッチーニのオペラはぜんぜん大衆的にはなっておらず、おそらく多くの人にとってブルックナーと同じ“お高くとまった”位置にある。『スパイダーマン』の何とつまらないこと。それに比する『ウルトラセブン』の深さ。映画は映画と比べよと言われるでしょうか。では『ゴジラ』にしておきましょう。まさに月とスッポン、千の隔たり。