音楽の編み物

シューチョのブログ

現代数学の難しさについて

数学セミナー9月号。特集「現代数学の難しさについて」には,思わず膝を打つことが書かれていました。

 

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 私たちが数学に遭う際,1度目はえてして要領を得ず,[理解は2度目]以降となる。人に数学を説明すると「よく分かりました.前の先生はなぜこう説明してくれなかったのかしら?」と感謝されるが,それは当人が既に1度目を済ませており,私はたまたま2度目に居合わせたにすぎない.
──(時枝正「むずかしい数学とつきあう」『数学セミナー』2019年9月号,日本評論社,8頁,「理解は2度目」を原文では[ ]でなく下線で強調)──────

 

中高一貫校で授業するのがなりわいの僕は,初めての“ワケワカラン”ものへの理解の初動を促すために苦労しているのに,何度目かで“やっとわかった”ことの手柄をかすめ取っていく予備校の先生などはズルイ!という気持ちがどこかにありまして…。あるいは,〇〇(何らかの中高数学のトピック)についての,教師間でもごく常識的に流布している,ある「わかりやすい」説明を,〇〇自体にはまあ精通しているがその教育は専門でない誰かが,〇〇を難しがる大人相手に得意げに話す,といったこともよく見聞きします。で,我々からみればしばしばかなり怪しく綻びもある形でなされるその説明を「よくわかった,こう教わりたかった」と喜んで聞く人がいると,アンタが忘れとるだけじゃ!…か寝とったかや!とツッコミたくもなるというものです。

時枝先生の言葉にはこういった現象を受容せよという含意もあることはもちろんわかりながらも,やはり言い当ててもらって溜飲の下がる思いも強いのです。

 

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ところで,自分のコントロール範囲で[わざとむずかしくしてみる]のは,研究の定石であり面白い.特殊事情が作用し,いわばエレガントに解ける問題がある.一旦解けた後,特殊事情は禁欲して,敢えて泥臭い方法を試みる訳だ.「すごさ」憧憬の御仁にお薦めする.
──(時枝正「むずかしい数学とつきあう」,前掲書,10頁「わざとむずかしくしてみる」を原文では[ ]でなく下線で強調)──────

 

日頃,エレガンスに欠け,地を這うような泥まみれの解答を何とか作り上げる,という場合も多い僕のような者からすれば,「敢えて」の試みなのか素の発想なのかは異なれども(頭掻),「(ときに)エレガントより泥臭さ(を)」という指摘には救われる思いです。

 

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のちに,明治大学で教鞭をとるようになって,矢野先生の演習での講義と同じ内容を大学院生向けに講義することになった.しかしそのときにとても困ってしまった.自分が説明する段になって講義ノートを作ってみると,「自分がかつてまったくわからなかった説明と同じ言葉を繰り返す」以外に説明の方法がない,と気づいたからである。これでは講義をする前から「学生にわかってもらえない」ということがわかっているのであった.
──(阿原一志「わかる力」,前掲書,32頁)──────

 

これも,僕なりにたいへん共感しつつ読み,思わず小さく声を出して笑いました(笑)。自分がオモロイと理解しワクワクもしている何かについて伝えるのに,けっきょく,ほぼ唯一最善の選択肢として教科書の言葉をなぞって連ねることになる…というようなことがあるのです。すべてがそうだというわけではもちろんないのですが,そういうときはまことにもどかしい。数学の諸事項諸概念の理解には,初めて接したとき(からしばらく)はさっぱりわからず難しかったことが,いつの間にか,あるいはあるとき急にふと一気に,そうでもなくなる時を迎える…という理解のされ方が一つの典型としてあるのでしょう。「わかりやすい説明によってわかった」とかいうのでない,あり方。そして,理解できたとしても自分ではその理由がはっきりとはわからないし,さらには,いったん理解したことについては「こんなにも明解なことが,過去の自分にはなぜ理解できなかったのか,もはや理解できない」といったことさえある…。

「難しいことを易しく語るのは難しい」とよく言われ,本特集でも他の方がそう書かれています。ほんとうにその通りと半ば同意しつつも,一方で,そういう“伝える側”目線だけで捉えきれるものではとうていないのではないか…とどうにも納得できずに長らく来た自分もいます。「難しいことは難しく語る以外になく,だから難しい」のではないか。理解する主体がどうであるか,というところにけっきょく還元されるしかないような,「理解の深層」があるのではないか,と。

 

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数学の理解について話をすると「どのようにすればわかることができるか」や「わかりやすい説明とはどのようなものか」や「わかることができるようになるためには何をすればよいか」を知りたがる傾向にある.しかし,筆者の長年の経験による感想では,これらの問いの中には本質的な答えに通じる道はなく,このような問いを考えている限り答えにたどりつくことはできないのではないだろうか.
──(阿原一志「わかる力」,前掲書,32─33頁)─────

 

付言すると,『計算で身につくトポロジー』など,おそらく他書を引き離してこれでもかというほど平易な著書,少なくとも平易に書くということに驚くほど意欲的で魅力のある著書を書かれているあの阿原先生までもが,いや,だからこそ,こう言われるのか…,という感慨もあります。

 

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