幻の蝶
2019年10月26日、空間の詩人・清水きよし「幻の蝶」堺公演。
…壁を伝い、重い荷物を持ち上げ、「まるでほんとに壁や荷物があるみたい」…パントマイムとはそこの巧さだと思っていた。そうした先入観の浅薄さには、今や我ながら恥じ入るよりもむしろ可笑しい。というのも、今日の公演においてそのような場面はついに一時もなく、「あるみたい」ではなく、ただ「ある」のであった。
風船が、あった。
手品のイリュージョンを見た。
トンボが、舞った。
蝶が見える。
それを追う人がいる。
追う人にも見えている。
でも、蝶はいない。
見えないものが見える。見えないからこそ見える。ないのに、ある。ないからこそある。だけでなく、ないものはないように見える。「ある」ものは「ないからこそある」のに、「ない」ものは、ないのに、ない。見えているのに見えない。この純粋な反転。マイムの芸術、芸術のマイム。
八つの演目の、「演ずる役が異なる」のではない。一つ終わって次になると、毎度、さっきと顔が違う別人が登場し、八人以上のキャストに出会った。独演ではない独演。一人が八人、八人が一人。
一人の芸術家が何もない空間に立ち振る舞い生成する豊かな世界と時間。その一瞬一瞬のすべてに込められた、ユーモア、情緒、情感、生、美…。それを見る者には、深い感動が、心の奥から、身体の芯から、沸騰する蒸気のように噎せ溢れ出る。
もう一度見ないとわからない、あと二回見てもたぶんわからない、そのわからないことにもまた感動の種が潜むに違いないと思い至り、再び感じ入る……。
……さて、上の散文詩?風拙文に入れることができなかったものについても以下に。
『いのち』は、今日の白眉の一つでした。下手からの登場自体がもう内容に入り込んでいる、という演出が他の演目とはまったく違う雰囲気を醸し出し、引き込まれざるをえません。静止と見紛うほどの遅々たる歩みを目で追っている間、息を止めて見入っていました…って、そんなはずはないんですが…。そして、舞台中央に辿り着いてからの、清水きよしの一挙手一投足の一瞬を逃さず捉えんとして鬼気迫る表情で11弦ギターを構え、みごとにシンクロしつつ撥弦していく辻幹雄さんの姿にも、大きな感銘を受けました。もちろんお二人で合わせていくのでしょうが…。清水先生と、もうどちらを見たらいいのかとキョロキョロするほどでした。いやあ、すごい!
今回のパンフレットには清水先生ご自身が「作品雑感」という文章を綴られています。そこに、『つり』についてはある一つの芸能(パンフ内では芸能名も指摘されています)からヒントを得た、その中のどの題材から得たのかは観てのお楽しみ、と書かれていました。終演後、畏友UKとの二人飲みでの対話中に、ふとその前半の意味とマイム表現のリンクに(ようやく)気づきました。ただし後半の意味は未だ知らず(頭掻)。教わるよりも今後どこかで「あぁ、これだったのか!」と巡り当たる方が嬉しいのかもしれません。
…すみません、ついまた饒舌モードが出ました(頭掻)。どれだけ言葉を連ねても捨象されることの方が多く、芸術の営為それ自体は必ずどんな感想批評も超えて無限に豊かな内容を包含するものです。この野暮な投稿の締めに、再びこの言わずもがなのことをお断りすることにします。