音楽の編み物

シューチョのブログ

トリカード・ムジーカの考え(理念)

芸術・音楽の営みとは、それ自体が目的で営まれるという以外の在り方はないといえます。芸術(音楽)活動の貴さ=価値は、それ自体の中にすでに含まれているからです。

 

例えば「演奏会という大きな目標に向かって」などと気負わなくとも、ただ楽しく音楽を享受できれば、ひとまずそれでいいはずです。演奏会については、「お客さんの前で発表・披露したい」という気持ちが誰にもありましょうし、私にももちろんあります。が、そのような気持ちが湧いてくるとすれば、それは初めに述べた「音楽芸術活動の直接的価値」と分かち難く結びついた一つの根源の欲求として湧いてくるのであり、「演奏会という大きな目標」を掲げないと出てこないという類いのものではないはずです。 

 

鶴見俊輔著『限界芸術論』の冒頭には、次のようにあります。

 

────
芸術とは、たのしい記号といってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。
─中 略─
結論から先に言えば、美的経験とは、もっとも広くとれば、直接価値的経験(それじしんにおいて価値のある経験)とおなじひろがりをもつものと考えられる。
─中 略─
一本のベルトのように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句読点をうつようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成させるものが、美的経験である。
────鶴見俊輔『限界芸術論』
ちくま学芸文庫、1999年、10・11頁)

 

労働によって食費をかせぐという経験は間接的経験で、その先にある「食事をする」という経験が直接的経験です。芸術は、そのような直接価値的経験の1種であって、そのうち特に「美的経験として高まっていく」(同11頁)ものだということです。

 

先述の例とつなげれば、いわゆる「練習」であっても「演奏会」であっても、音楽活動への指向/嗜好は、食事をするのと同様の「直接価値的経験」を求める「根源の欲求」をその端緒としているのです。そうであってみれば、「お客に聴かせるからには…」「1円でも入場料をとるということは…」「アマチュアだから…/プロならば…」などという論点は、音楽および音楽活動の価値を論じる際に何らふさわしいものではなく、音楽(活動)の質の良否を分かつ論点には成り得ないことがわかります。

 

この種の、「お客」「お金」「プロとアマ」といったことについてのダメ出し的な議論を、私は「“厳しがりや”の言説」と呼んでいます。音楽活動に関して何か言われたもの/書かれたものといえば、もう、いつでもどこでもこの“厳しがりやの言説”に満ちているといってよいでしょう。しかし、世がどれほどそれらにあふれているとしても、それらは「大勢」「利益」「名声」などへの二次的な「欲望」と関わるものであって、芸術音楽そのものの真の厳しさ(があるとしてそれ)からは外れたものです。「寂しがりや」というとき、本当の寂しさ・孤独を知らない、わるい意味での甘えん坊がイメージされることがあるように、自らの音楽活動を「厳しがる」ことと、その真の厳しさにきちんと向き合うこととは、はっきりと異なるはずです。

 

ただ、「真の厳しさ」などという語がすでに「“厳しがりや”の言説」に通じてしまい、うっかりすると絡めとられてしまう。トリカード・ムジーカでは、芸術とは何より「たのしい記号」であることをいつも忘れずに、ただただ「それに接することがそのままたのしい経験」を積んで行きたいと思っています。

 

また、フランスの哲学者・思想家のシモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)は、高校3年生に対する「哲学」の授業で次のように説いています。

 

────
《美は教育はしません。》
─中 略─
美的な完全さについての「一般的観念」はありません。バッハのフーガを聞くとき、完全なのはそのフーガ自体なのです。
────シモーヌ・ヴェーユ『ヴェーユの哲学講義』
ちくま学芸文庫、1996年、296頁)

 

教育とは一つの働きかけです。それに対して、美は、美からこちらには働きかけず、それを美と捉え得る者とのみつながりを持つのです。

 

マスメディアなどで教育や学校が話題になるとき「私たちは○○の活動を通じて、○○の楽しさを子どもたちに伝えていきたい」というような言い回しをよく耳にします。しかし、そうやって伝えなければ伝わらないような楽しさが、はたしてほんとうの楽しさと言えるのでしょうか。ほんとうに楽しいことには自然と人(子ども)が寄って来るのではないでしょうか。音楽「の楽しさを伝える」のではなく、「音楽《それ自体》が伝わる」ようなことであるはずです。

 

音楽は、「私たちの活動」など通じなくても、初めから楽しいもののはずです。「音楽の楽しさ」という「一般的観念」は無く、バッハのフーガ自体の楽しさがあるのみです。これは、芸術音楽を何か崇高で特別なものとして見たいのではなく、その逆です。トリカード・ムジーカでは、「単なる音楽《それ自体》」に「常日頃から」付き合い、外から他のたいそうなお題目を掲げることなくそれに向き合っていきたいと考えています。