音楽の編み物

シューチョのブログ

考えと行いのあいだ

 私シューチョは、「名前の由来」や「トリカード・ムジーカの考え」において、“始動者”の一人としてその壮大な?理念を打ち出しております。また、「シューチョの文集」に収めた文章も、「音楽/演奏とは何か/どうあるべきか」といった、根源的・本質的な話題に立ち入った仔細な思考について綴っています。併設の個人ブログ「シューノ」においてもそのような記事は少なくありません。シューチョはこの主要な文筆活動公表の場において、主に《行い》ではなく《考え》を綴っています。
そういう私は同時にまた、トリカード・ムジーカの指揮者/奏者すなわち音楽演奏の行為者としては、その音楽演奏の《行い》がどうであるか、トリカード・ムジーカの普段の活動がどのようであるかこそが最も大事な側面であると自覚しています。
考えと行い。この二つの連関のために《行い》の部分で私自身が為すことといえば、しかし、このサイトに公表しているような内容を口語に変換して熱く語ることでも、ましてや「練習」で「編み物の手を動かすように自然に!」「もっと自由に!」などといった指示を飛ばすことでもありません。もっと自由にと言われるほど不自由だという場合がありますよね。──あ、そうか。これ(制約と自由の関連)に関しては「名前の由来」にちゃんとあるじゃないですか。われながら周到。──
普段何をしているかといえば、スタジオの予約とか予定の調整とかの周縁の《行い》については置くとしても、スタジオに集った奏者のみなさんを前に、指揮者として構え、アウフタクトを示し、ブレスをし、一拍一拍に適切?な指揮法を与えて振っていく、これのみです(今はあえて他の諸事を切り捨てて「のみ」と言っておきます)。
「作品と表現の弁証法」で言及した仮想的アプローチに対しても「義務感」のようなものはありません。普段は忘れて?います。
別の視点からの例を挙げると、「考え」における「演奏会という大きな目標」というものの扱い方一つを採っても、その部分自体が「お題目」となってしまって《行い》を縛る、といった事態は、最も「トリカード・ムジーカらしくない」事態であり、実際には起こりえません。「普段はなかなか行けないが何らかの発表の機会の直前と本番には参加しよう」という意志を持って集ってくる人が少なからずいることは、多くの楽団との共通点でしょう。ただ、否定的には捉えないことは相違点なのでしょうか。
もとより、文筆によって伝わることは限られています。芸術活動って、《行い》の場面の方がはるかに広大詳細深遠です。当サイトに「考え」「行い」として公表/表現しえていないことが、一度の集いの演奏・合奏という《行い》の中には無数に表出する。
しかも、一度の一瞬の《行い》は、必然的にその時その場で完結しつつ進む「完全な行為」の連鎖であり(行為の「結果」を不完全と捉えるかどうかはこれまた各人の《考え》の方)、それらの蛇行そのものが変化の過程を形成していく。それに対し、《考え》の方は、本来の姿=一種の理想に辿り着こうと、つねに逡巡し反省し進化する。すなわち、「考え」は「更新」されえます。その中での一貫性というのは、「大方しくじらなければ振り返ってみればどうにか“ぶれずに”来ている」ような“幸運な”性質であって、首尾一貫していること自体が目的となるような文筆活動は本末転倒なのだろうと考えます。
それでもこうして「考え」や「行い」といった文筆活動を公表するのには、今のところ三つほど理由があるようです。一つには、それを目にした人たちの中に、何だか面白そうじゃないかと思ってくれる人がひょっとするといらっしゃるかも、きっといるぞ、と想像の雲を広げているからです。あるいは、“生身の”私のことを某かこれまでに見聞き知っている人に「ここには何だか小難しいことばかり書いてるが、あの小西収がやってるなら…」と、現在の《行い》自体には興味を持ってもらえるかもしれないという期待があるからです。もう一つは、《考え》を書いてここに収めるということ自体が、書き手である私自身に何らかのフィードバックとなって、今日から明日への私自身の考えと行いに良い自律と循環を生じさせるため、といえそうです。
ともあれ、シューチョがここに公表した「考え」を十分咀嚼・共感・納得することがトリカード・ムジーカの「行い」に集う資格となるというようなことではありえません。そんなの、最も厳しく審査すればシューチョ自身が真っ先に資格を失うことになりかねないでしょう。