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シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(10)

  マイケル・サンデル

  『公共哲学 政治における道徳を考える』

  (鬼澤忍訳、ちくま学芸文庫、2011年)

 

 こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。

 

前回(『サンデルの政治哲学』)で紹介した4つのサンデルの著作のうち、翻訳版としてはこれが一番後発です。『ハーバード白熱教室講義録』『これからの正義の話をしよう』と同様、道徳/善/正義・リバタリアニズムリベラリズムコミュニタリアニズムといったテーマを採り上げているのですが、より専門的である点と、何よりも、話題がアメリカ国内における具体的事例に絞られている点が前2書とは異なります。政治・社会の現場/現実に即したこういったサンデルの発言によって、彼の哲学・思想が、いっそう直に伝わってくる本書には、前2者にはない読み応えがあります。

 

以下で、「二つのケース」とは、ホロコーストの生存者が多く住むイリノイ州スコーキーでのネオナチの行進ケースと、アラバマ州でのマーティン・ルーサー・キングのデモ行進のケースを指します。

 

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 二つのケースを区別する明白な根拠は、ネオナチが集団殺戮を肯定し、憎悪を煽るのに対し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは黒人の公民権を求めたということだ。こうした違いは、発言の内容や主義主張の本性にある。また、傷つけられるコミュニティの道徳的価値にも違いがある。ホロコーストの生存者が共有する記憶は道徳的な敬意を受けるに値するが、人種差別主義者の団結はそうではないのだ。このような道徳的区別は一般常識と一致しているが、善に対する正の優先を唱えるタイプのリベラリズムや、権利の根拠をコミュニティの価値のみに求めるタイプのコミュニタリアニズムとは相容れない。

────(382頁)

 

キング牧師であれネオナチであれそれらの「発言の内容に関して中立を主張するリベラル派(382頁)」の考えや、人種差別主義者たちの多くいる南部のコミュニティが黒人公民権運動を拒否することと、ホロコースト生存者の多い地がネオナチを拒否することとが、「当のコミュニティで主流をなしている価値観に寄って正を定義(382頁)」している点で同等だとせざるをえないコミュニタリアンの考えには、いずれも不足している面がある、ということですね。

 

ここには、善と正義とは切り離すことはできない、公共善・共通善の概念を見直すべき、とするサンデルの考えがよく表れていると同時に、コミュニティの共通善のみへの依存は危険で、それらとより普遍的な価値との平衡が容易には訪れないからこそ、両者を照らし合わせ考え続けていかなければならない、そうすることこそが公共哲学/政治哲学することである、という、彼のハーバード白熱教室や東大特別授業での締めの言葉(『ハーバード白熱教室講義録 下』237、272頁)も想起されます。

 

で、繰り返しになりますが、そういうサンデルの考えのエッセンスが、特にアメリカの現実の歴史的政治的な具体事例への言及によって滲み出て来ているところが、本書の特徴といえましょう。私は未読ですが、『民主政の不満』もそのような著作のようです。