音楽の編み物

シューチョのブログ

マァイケル・ヨンデル「ハードカバーと白熱電球」(9)

  小林正弥

  『サンデルの政治哲学 <正義>とは何か』

  (平凡社新書、2010年)

 

 こんにちは、マァイケル・ヨンデルです。

 

本書には、「ハーバード白熱教室」および『リベラリズムと正義の限界』『民主政の不満』『(人工的人間)完成に反対する理由』(注)『公共哲学』といったサンデルの主著について、実に良い意味で手際よく、かつ深くしっかりとまとめられています。読みやすい文体に誘われ、特に苦労も無くすーっと読めて、しかも、サンデルの「白熱教室」と4つの著作をすべて視聴・読了した気にさせてくれるのです(笑)。そういう本書ですから、帯で「サンデル自身が推薦」と謳われているのも十分頷ける反面、ほんとうにいいのかなとこちらが心配してしまうくらい、「出し惜しみ」ということがまったく無い、ありがたい一冊といえましょう。

 

ハーバード白熱教室」のブームは、主には「対話的講義の新鮮さ」「サンデルの講義術の華麗さ・巧みさ」がうけて起こったのでしょう。しかし私は、サンデルのいうリベラリズム批判の議論の内容そのものに共感・関心を寄せています。あるいは「リベラリズムへの不満」ということについては別に私が特有でも少数派でもなく、多くの人も共通に抱いていたということなのかもしれません。

 

本書の主眼はあくまで、サンデルの哲学・思想の解説にあり、著者の自説を展開することにはありません。すると、本書自体はほんとになかなかおもしろかったのに、当コーナーで採り上げるとなると、引用箇所の選択に悩むことになるのでした。つまり、例えば本書のおかげで上記サンデルの著作の一つを読んだのですが、それについても当コーナーでいずれ…となると、両者の内容がかぶってしまうのですね。そういう中で、著者小林正弥自身の考えがかなり直截かつラディカルに打ち出されているのが次の一節だろうと思います。

 

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 日本における戦後の知のブームについて考えてみると、早い時期にはまずマルクス主義の流れがあって、左翼的思想が隆盛を極めていた。この系譜において、最近まで思想界の中心にあったのは、ポスト・モダンと言われるようなフランス系の現代思想であった。しかし、このポストモダン思想においては、「私たちはどう生きるべきか」「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見出すことはできないように思われる。そもそもポストモダンは、そういった理想や真理の体系を批判する所から生まれた知だからである。原理的に理想を見出せない思想は、いわば知の自殺行為とも言えるのではないだろうか。

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(29頁)

 

サンデルの「リベラリズム批判」と併せ、小林のこの「ポストモダン批判」も、私の最近の問題意識とぴたり合致し、膝を打ちました。

 

例えば、「ブームになったものって何だか胡散臭い」「一過性のものでしょ」と斜に構えてモノを見る、というのもまさにポストモダン的な在り方なのだと思います。“流行リテラシー”とでもいいましょうか、そういうふうに気をつける態度が必要であることに全く異論はありませんが、注意深く「気をつけ」続けながらも、より重要なのは、言わずもがな、その内容それ自体でしょう。また、そういったリテラシーを踏まえた上で、その先「では、この自分はどう考えるのか」ということの方が、ずっと重要だということです。逆説的?ながら、「偉い」学者の言うこと・書くことの方が、「普通の」市民の声よりもまだしもまともだ、ということがいくらもありえます。実際、昨今のニュースのインタビューなどで拾われる町の声というものには、辟易することの方が私には多い。もちろん、まともな声もあったのに取材側の意図によってそれらはオンエアされないということも大いにあるのでしょうが。

 

注:『完全な人間を目指さなくてもよい理由──遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』という邦訳書名について、原題の The Case against Perfection の訳としては、サンデルの思想を正反対に誤解させかねないミスリーディングな誤訳である、とする小林(226頁)に従いました。